【人間の考察】閑話休題(1)「人間の重みを知る」(3470文字)

※このシリーズの経緯と注意事項をまとめた【人間の考察】Part.1「創作的思考と哲学」に一度でも目を通していただけると助かります。

 執筆の考察にも似たようなタイトルで投稿していますが、この日記は今までのタグ「哲学」に綴った内容から登場人物を捉える内容になります。とは言え、畏まった内容ではなく、人間を根本的に捉えられれば、登場人物も自然と奥深いものになってきたという振り返りです。本題とは別にあるコラムのようなもの。

 

難解な人物表現

 タグ「哲学」の【人間の考察】Part.1で綴ったように、私は登場人物の表現にひどく悩んでいました。もしかしたら「登場人物を考える」と「設定を考える」を同義にしている人は多いかもしれませんが、個人的には少し異なるものとしています。確かに登場人物の設定を考えることも必要な作業ですが、そもそも人間の重みを知らずして表現は始まらないという結論です。

 もちろん、これは私の持論に過ぎません。作者の数だけ人物論があることを望んでいます。月並みですが、私にとっての理想的な人物表現とは「本当に生きているかのような人物」です。今までに観てきた作品でそれを目の当たりにしてきただけに、私の作品における登場人物はどこか記号的で無機質な印象を覚えてしまいました。

 最初は単純に設定が粗いと考え、もっと細かく、数を増やすことで解決できると思っていましたが、一貫性に乏しいような印象を受けたり、作者の都合だけで構築された設定に悩みは深まるばかりでした。人物を考えるとは、こうした作業を経るものなのだろうか。この疑問が段々と頭から離れなくなり、同時にいつまで経っても納得のいかない人物表現に嫌気が差して現を抜かすようになったのは察するところ。

 

原因の究明

 それでも人間に対する興味は高かったこともあり、登場人物以前に人間についての理解を深めるに越したことはないだろうということで、私は一日一文の日課を通じて毒にも薬にもならない日記を綴っていました。人間に対する興味と言っても、他人に対して場当たり的に思考を練っているばかりでしたから、内容はともかくとして自分の思考を書き留めておく意味は大きいものだったと思います。

 そして、納得のいかなかった原因とは「人間の重み」を知らなかったことです。登場人物の重み。人間は誰もがこの世に生を受け、いずれ死に至る運命を受け入れなければならないところがあります。この世に生まれてから死ぬまでの間をどれほど具に想像できるでしょうか。人間の重みとは、命に対する想像力のようなもの。物語の登場人物とは言え、現実の人間と同等以上の想像力を以て創造しなければ、人物は作者の都合によって生み出された意味を超えることができないのです。

 人間の重みを知らないとは、程度の差はあれど何とも薄情な印象を与えるかもしれませんが、タグ「哲学」で述べているように人間は自らの世界に囚われている限り、他人に対する想像力を欠くことは誰であっても日常茶飯事と思われます。ましてや作品で表現したい気持ちが大きく先行している場合、自分の気持ちばかりが頭に一杯で登場人物のことを考えられているようで考えられていません。日常生活でも、他人を理解し、気持ちを想像したいなら、一時的にでも自分自身の囚われから脱する必要があります。

 言い換えれば、人間の重みを知るには自らの世界の囚われを生む原因に迫らなければなりません。その原因がタグ「哲学」としてまとめるに至った内容ですね。ただし、いくら人間の重みを知っても、登場人物の表現には表現力の問題が付きまといますから、現実に文章として表現できるかどうかは別の話です。

 

現時点での人物論

 では、その変化を経て、私の人物論はどのようになったのか。詳細は「執筆の考察」に書きたいところですが、結論から言えば、イメージに重きを置くことです。

 例えば、主人公を発想したいなら、主人公とは何か?から始まり、主人公そのものや主人公を取り巻く環境、物語として担っている立場、役割など主人公に対する無数の問いを立て、漠然としたイメージを生み出します。

 ここで設定が先行する弊害について述べておくと、設定に用いられた言葉の数々を悪い意味で超えられなくなることです。さらには設定の整合性を保つことに奔走し、設定の数だけ窮屈な人物にもなりかねません。実際に私たち現実の人間にしても、いくつかの言葉だけで言い表すなんて本来は難しいことですよね。なので、設定を人物の基礎にするのではなく、イメージを基礎として設定はイメージを忘れないためのメモに留めることを意識しています。

 言語は意識的な領域と相性が良く、逆に言うと無意識的な領域を言語化することは骨が折れます。イメージとは、比較的明瞭に把握できる意識的な部分と、何とか感じ取れる程度の無意識的な部分の集合体と考えています(思考+直感)。ゆえに人物についての漠然と思い浮かぶイメージというのは、設定(言語)以上に価値のあるものなのです。すぐに形を決めない。

 主人公なら主人公に対する無数の問いの答えを考え続けているだけでも、自然と共通する部分や重要な部分が“人物の核”として落ち着きを見せ始めます。人物の核(確からしいイメージ)を少しずつ捉えられるようになってから、設定(言語化)を試みるくらいが私はちょうど良いですね。人物の核さえ捉えられれば、あとは勝手に動き回り、必要な設定を集めてくれます。特に今までにない作品を追求し、登場人物たちにも新規性を見出すなら、言語化には細心の注意を払いたいところです。

 しかし、イメージは曖昧模糊とした無責任なものとも言えるので、日を跨いだり、少しの刺激からすぐに変化してしまうのも事実。なので、現実的な方法論としては微妙な気がしなくもありません。無数の問いが大きな枠組みとして機能すれば何とかなるでしょうか。そう信じることにします。

 

終わりに

 おそらく私が上記のような考え方の変遷を辿ったのは、小説という言語を中心に取り扱う分野だったからかもしれません。もし、これがイラストであったなら、ここまで悩まなかった気もします。どうしても言語化を繰り返す作業の中にいると、言語に信頼を寄せ過ぎてしまうんですよね。正直、私は言語の限界を悟り始めていて、いかに言語にできない部分を言語から伝えるかに焦点を絞りつつあります。間接的な表現。

 人間社会では悪気なく、他人を言葉で形容することもありますが、実際に個人の可能性、人間としての幅の広がりは言葉の範囲を優に超えている前提は持っておきたいところです。下手をすると、人間は与えられた言葉に縛られ、自身の可能性をふいにしてしまうかもしれません。私たちが言葉を用いる意図は、あくまで言葉に置き換えた方が取り扱いしやすくなるからであって、実際にそうであると証明するためのものとしてはやや頼りないと思っています。

 また、創作的思考は特異な思考作業であることを改めて感じます。日常では他人に対する部分的な想像はしても、そこをきっかけに全体を捉え、肌の感触が浮かび上がるほど鮮明な感覚を目指すことはありません。むしろ他人に対するむやみやたらな想像は、自分自身への負担になり得るものです。創作的な思考作業の果てが作品であることに変わりはないものの、人間が人間について、世界について考え続けた過程というか、もはや執念が哲学となり、独自の価値に繋がることもまた本望という気がします。

 そして、私なりの登場人物の考え方を「人間の根本を知るに尽きる」と言うならば、世界観の考え方は「世界の根本を知るに尽きる」となるのでしょう。この方針が個人的には腑に落ち、だからこそ私は哲学的に物語を書くことを自覚します。初めて作品を書いたときから随分と変わりました。いや、本質的には変わっていないのですが、タグ「哲学」で述べている無意識の領域が開拓されて、改めて自分自身を知った感覚です。

 それに人間と世界の根本を知ったら、執筆に腰の重い私でも簡単に物語を執筆できる期待があります。なぜなら、そこに世界が存在し、人物が加われれば、勝手に動き出すからです。そうなったら物語を考えるのではなく、物語を見つけると言った方が正しいことになります。まだ見ぬ知らぬ境地ですが、あながち間違っていないのではと思います。

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