【人間の考察】Part.9「相互理解と信頼に基づく補完と愛」(5974文字)

※このシリーズの経緯と注意事項をまとめた【人間の考察】Part.1「創作的思考と哲学」に一度でも目を通していただけると助かります。

 自立した精神構造を第一としていますが、信頼関係に基づく補完を否定しません。特に人間は生まれたときから社会(他人)との接点がある以上、身近な人間と信頼関係を築けていたら不要な喪失を生み出さず、振り回されることも減るでしょう。

 基本的に人間は他人の自己愛性に忌避感がありますから、存在の肯定に係る労力を他人に求めることは得策ではありません。しかし、信頼を前提とする関係においては例外が認められ、他人にしかできない肯定の余地がある分だけ、持ちつ持たれつの関係を模索できます。これは自立した精神構造に限界がある場合には必須であり、限界がなかったとしても個人ではどうにもならない状況で建設的なサポートになり得ます。

 

1.人間関係の認識と自己理解に基づく理想的な関係

 まず、家族や友人、恋人との関係を客観的に把握してみると、物理的に近い距離から関係が構築されていることが多いかと思います。例えば、家族はもとより、学校の友人でも、多くは同じ地域に住むという事情だけで集まっています。恋人との関係では、表面的な情報だけで判断せざるを得ないことも多いはずです。

 物理的に近い距離から集まっているとは、個人の性質に基づいていないということ。もちろん、接点さえあれば、誰とでも仲良くなれる可能性はあり、仲良くなれるということは個人の性質に基づく部分もないとは言えませんが、人間は孤独の不安を抱えているため、そもそも他人を求めてしまう“人間としての性質”が大きいと認識しています。自分に合う合わないよりも、孤独になりたくないということ。

 より良い学生生活を送れた人にとっては他人を前向きな存在として捉えられますが、逆に心地の良いものでなかったときは後ろ向きになるかもしれません。そういう認識が大人になる時点で形成されていること。しかし、物理的に近い距離や自己理解に基づかない人間関係とは、一種の環境任せの選択ですから認識の形成は早急と私は思います。

 では、環境任せではない理想的な関係とは何か。結論から言うと、自己理解と相互理解に基づく補完関係を自らの意思で選択することです。依存ではなく、補完。

 補完関係の重要性は、昨今の多様性を推し進める理由と同じです。生きるとは、時に大きな障害に阻まれることもありますから、孤独に生きるよりも、他人との助け合いによって様々な状況に対応できるに越したことはありません。他人との助け合いも、お互いの得意不得意に基づいた方がより良いことがわかります。自分ができることを他人にわざわざ任せるよりも、できないことを任せ、他人ができないことを自分に任されたいですよね。ちなみにこれは反対意見を許容する重要性にも繋がっています。

 自己理解に基づかない関係構築は、前回までの内容からして主観の押し付け合いになりかねないのです。自分自身が見えていないにも拘わらず、関係を結ぶことは相手とのバランスが不明瞭となり、最悪、片方に負担をかけ続けるだけの関係になります。好きな人に嫌がるほど告白し続けるようなもの。自分の長所と短所を自覚し、他人の長所と短所から補い合えることができれば、単純に1+1=2以上になれる期待が持てます。何も考えずに関係を結べば、1+1=2以上に絶対にならないとは言えませんが、2以上になっている実感(他人への感謝)は小さく、マイナスになることもあります。

 ただし、自分が関係を望んでも、相手から理解されなかったり、関係を望まれない場面も多々あります。理想的な関係に至るには相互理解が不可欠ですから、その意思を放棄している時点で当然難しくなります(興味を持ってもらう大切さにも繋がる)。世の中では自分一人よりも遥かに難しい関係構築に、自分一人の世界だけで片づけようとしてしまうことがあります。主観の世界を生きることしかできない人間にとって仕方のない面ですが、理想的な関係の良さは補完によって現実的な問題解決が捗るだけではなく、自己の存在を肯定できる重要なきっかけになり得ることです。

 自己の存在の肯定、精神的な生を実感するきっかけとして、他人から認識してもらえること、とりわけ重要な存在と位置付けられ、信頼を置かれることは“この上なく幸せである”と私は思います。誰もがそうした関係を目指すことができるにも拘わらず、主観に囚われているところから出発するがゆえに他人との理想的な関係にすら気づけず、ただただ自分の世界を生きるだけになってしまうのです。

 

2.精神の循環と自己の投影

 精神の循環とは、喪失と補完の繰り返しであり、具体的には人や物を対象にして行われます。人間は常日頃から喪失を補完する対象を求めていますから、喪失を抱えている人ほど様々な人や物に対して執着してしまいます。

 なぜ、執着するのか。これは前回までの内容から喪失は精神的な死の危機であるため、早急、且つ継続的に補完し続けなければならないからです。コンプレックスを刺激した対象に恨みを持ったり、精神を充足してくれる対象に愛着が湧いたり、肉体は他の生物や食物から栄養を得るように、精神も自分以外の対象を利用しながら生きるようになっています。喪失が大きくなりすぎた場合、対象無しでは生きていけない依存状態にも苛まれるでしょう。

 依存かどうかは別としても、生きるために不可欠な存在にまで昇華したということは、そのものが自己の一部であると言い換えても差し支えないかと思います。ここから人や物が失われたときに激しく動揺する理由もわかりますね。おそらく人間は本当にたった一人の状態では生きていけません。肉体の維持は当然として、精神も自らが認識する自己、認識される自己が同時に成立する状況でないと、確かめられない不安に圧し潰されてしまいます。

 そして、人間関係における精神の循環は一種の“同化現象”であり、信頼もまたこの現象の一部と考えています。肉体には両親の遺伝子が混在しているように、精神は自分以外のあらゆるものが流入、混在している状態であり、それ自体を肯定しているとき、信頼と呼べるものが大きくなっていくのでしょう。人間は誰とも知らない他人の自慢話を聞くことに忌避感があっても、信頼する友人の自慢話には心から喜べます。これは友人に流入した自己を無意識にでも認識しているため、友人の喜びは自分の喜びに等しいというわけですね。

 ここで最初に述べた「理想的な関係」を加えて考えてみると、人間は関係を結ぶ他人や物事次第でお互いに良くも悪くも変わるため、自分自身をより良く導く他人と、他人をより良く導ける自分を第一にできれば、現在の自分からは想像できないような変化を遂げることができるという理屈です。しかし、自分自身の変化や他人からの影響を具に観察している人は少なく、毎日小さな変化を積み重ねていても、大きな変化に至るまでなかなか気づけません。加えて、孤独ゆえに一緒になってしまってはより一層気づきにくく、非建設的な依存のリスクまであります。

 自分以外のあらゆるものとの接点を求めるとき、まずは自分自身の孤独を自覚しなくてはならない。次にあなたのそばにいる人があなた自身の可能性を広げてくれるのか、それとも潰してしまうのか。自分が相手の可能性を引き出せるのか、それとも潰してしまっているのか。この問いは人間関係の永遠の問いなのではないかと思います

 自己を客観視してから人生が再出発すると述べたように、他人との関係性にしても人生で一度や二度は大きく考え直す場面があっても良いと感じています。

 さらに前回の「喪失の寛解」では寛解させるまでの個人的な努力を説明しましたが、実際に個人の努力だけでどうにもならない部分もあるでしょう。そういうときには自分以外との関係から寛解を模索することが効果的になります。

 友人の数は少なくても良いが、信頼し合える友人は多いに越したことはないというのが結論です。

 

3.無条件に存在を肯定する愛

 理想的な関係は、ある意味で打算的な関係を目指すと解釈される恐れもあります。確かに私は人間の個性に着目するほど、高い次元で結び付く対象は限られていると考えているものの、だからと言って他の関係を蔑ろにして良いとは思っていません。

 以前まで私は誰に対しても優しくあろうと、より良い関係性を構築できるように意識を割き、我慢も厭わないことは多くありました。ですが、それは八方美人的な立ち居振る舞いにしかならず、自分を押し殺しながら相手に合わせるという持続性のない関係に落ち着きやすく、さらに優しさを搾取されやすい欠点があります。また、歳を重ねるほど個人の違いは際立ち、関係性の構築が難しくなる実感が大きくなったことも挙げられます。生い立ちから年齢、価値観、主義主張も全然違う他人と仲良くすることは、想像以上に難しいことを悟ったわけです。しかも合わない関係を維持するストレスによって精神的な余裕もなくなれば、やるべきことへのパフォーマンスも著しく落ちます。

 多様性の変遷にしても、まずはそれぞれの個人がより良く保てる場所(関係)を拠点として、次に近い他人との建設的な関係を模索し、最後に遠くにいる真逆の価値観を持つ人々への理解と関係構築を少しずつ推し進めるものと思います。多くの人間に価値を与え、肯定していくには段階を踏まなければなりません。それだけ人間は「すでにそうなっている自分」から「乖離した他人」には嫌悪したり、忌避したり、理解に苦しんだり、怖がったりするものです。

 ただし、どんな自分であっても最初からできることが一つあります。そう、これが「愛」です。対象の全てに愛を持つこと。自分には自分の居場所を見つけ、健やかに成長していく一方で、他人にもまたそれぞれの居場所を認めること。

 愛に気付けるかどうかは、他人との関係において非常に重要な意味を持ちます。例えば、他人を批判することは容易な行為ですが、それが単なる自己満足やストレス発散にならず、本当に他人のためになる批判かどうかは愛の有無によります。愛がない人は、自分にとって都合の悪い対象をすぐに切り捨てる結論を導きやすい。切り捨てられる他人は怒りを抱き、争いへと発展してしまうでしょう。争いが生まれれば、全体が危機感を抱き、余裕を失った群集は喪失と補完の収支が悪化します。争いが少ないに越したことはないのです。

 では、愛とは何か。端的に言うなら、無条件に存在を肯定すること。および存在を否定しないことです。ちなみに、この文脈では社会性に近い愛を述べていますが、自分自身の存在を肯定できない人にとっては自己愛もまた大切なものです。

 例えば、言葉遣いからも愛は滲みます。相手の逃げ場を消し、最終的に存在を否定せざるを得ない状況を作り出す言い方は絶対にしてはいけません。これは次回以降に綴りますが、意見(結論)の違いから否定するものは存在ではなく、論理です。意見(結論)の根拠や前提に疑問を向け、自身のそれらと比べ、信憑性や優位性、正当性を検討するに留めます。常に自分とは違うものが見えている他人への配慮を欠かさなければ、人の数だけ可能性が生まれ、個人の才能が活きやすくなります。

 そして、喪失を他人との関係から寛解させるには、愛を持つ人といかに関わりを持てるかです。原点に立ち返り、原点を肯定してくれる人と長い時間を過ごすことができれば、自分自身が今まで抱えていたコンプレックスなど贅沢な悩みに過ぎなかったと悟るのではないでしょうか。多様な価値観や考え方があれば、様々な問題に対応できるようになりますが、お互いが自身の正しさに傾倒し、他人を否定してばかりなら多様さは争いの数を増やすだけになってしまいます。

 人間は喪失を抱えた分だけ、自身を守るように迫られることが増えます。多方面から自身を守ってばかりいると、人格が歪んだり、性格的にひねくれたりするでしょう。例えば、コンプレックスを他人から何度も指摘され続けると、他人との関係が嫌になるだけでなく、そもそも他人との関係が上手くできないような認識から人格までも形成されます他人から褒められるときの多くが嘘を隠す目的と学習してしまったら、褒められることを素直に受け取れなくなりますよね。

 そうやって作用と反作用の関係から、他人との関係が直線的ではなくなることが少なくありません。キャッチボールで言うなら、常に変化球を投げるようなもの。直線的ではないボールは受けにくいため、受け取る側は次第に関係を望まなくなります。喪失の悪循環には、人間関係の破綻まで組み込まれていると言っても良いですね。

 もちろん、あらゆる物事を真に受け、鵜呑みにすることはありませんから、この意味においては誰もが多かれ少なかれ歪みがあります。他人との関係は共感によっても成立するため、正しく言うなら、同じような球種を持っているかどうかです。喪失は歪みを生みますが、歪みを消すには最も健やかに生きていた原点に戻ること。原点の大切さに気付くには「存在の肯定」という愛によるところが大きいと感じています。

 

終わりに

 作品では、それぞれの登場人物に愛を持って表現するだけでも奥深いものになると思っています。特に主要登場人物の関係は、上記で述べたような関係を一つの理想として表現したいものです。ひとりとして無駄なキャラクターはおらず、皆が個性を発揮している様子には人間社会の目指すべき姿を垣間見ている気さえします。

 今はそれほど読まなくなってしまいましたが、学生時代に触れた少年漫画では例外なく、すべてのキャラクターに愛があり、丁寧に描かれていることに感銘を受けました。あれは作者の愛が成せる業であり、読者である子供たちの将来を大切に考えたものとしたら、素晴らしいという他ありません。同じようなキャラクターばかりではつまらないように、人間社会も同じような人間ばかりではつまらないはずです。自身の得意不得意を把握し、適材適所に落ち着いて尽力すれば、個人の可能性は引き出され、延いては全体にとっても大きな利益となるでしょう。

 今回の内容は一言で言えば「理想的な関係と愛に気付くこと」でしたが、一つ一つの小テーマが重かったので説明不足を感じています。もう一度、大きなテーマとして詳細に語るか、単純に書き直すか。いずれにしても改めて手を加えるつもりです。

※この日記へのリンクは原則として自由に貼っていただいて構いませんが、悪意のある目的(スパムや誹謗中傷、評判を貶めるなど)での利用は禁じます。