【人間の考察】Part.8「喪失の寛解」(6241文字)

※このシリーズの経緯と注意事項をまとめた【人間の考察】Part.1「創作的思考と哲学」に一度でも目を通していただけると助かります。

 今回の内容は「喪失を小さくすること」です。明確な目標や夢があるなら喪失を原動力化する利点(夢や目標に合わせた行動に換える)は大きくなりますが、そうしたものもないときは喪失の原動力化よりも喪失に振り回されないために小さく留める方針が有力になります。

 そこで今回のテーマは「喪失の寛解」ということで、大きくなった喪失を小さくする方法について綴ります。小さな喪失であれば、日々の三大欲求を満たすことで健全な循環に至るかと思いますが、大きな喪失は過剰な補完衝動を生み出し、極端な行為や認識を持ちやすくなってしまいます。

 

1.自らを客観視するということ

 自らを客観視するとは、自らを意識下に置き、コントロールを試みること。喪失の寛解に至るには、前回の内容にて「喪失の自覚」から始まり、次に自らの喪失の本質や仕組みについて客観的に考えられなければなりません。大きな喪失を抱えてからでは客観視することも非常に難しくなりますが、それでもできないわけではないと考えます。

 喪失の自覚とは、自身の反応を観察することと同義です。あらゆる刺激に対して自分自身がどのような反応を示すのか。無関心か、感情的か、理屈っぽくなるか、嬉しいか、悲しいか、嫉妬心を露わにするか、怒りを掻き立てられるか。特に喪失は負の感情(否定、嫉妬、憎悪など)と結びついていますから、自身の反応から喪失の有無、大きさを確かめることができます。

 しかし、自らを客観視することは簡単ではありません。第一に人間はどうあっても他人の目から自分を見ることはできず、主観的な客観世界が限界だからです。これは客観的に見ようと試みても、自身の喪失と補完に振り回される余地を残しているということ。第二に主観的な客観世界の限界に近づくには、想像力をはじめとした能力を必要としています。自分以外の人間や物事に想いを馳せ、自分から切り離した世界や背景を想像しなければなりません。第三に自己愛性は社会性、すなわち客観世界を否定しようとします(客観視の意義を奪う)。自分さえ良ければという思考に陥ることは誰しも難しくありません。

 つまり、実際に客観視するには様々な条件をクリアしなければならないということ。この条件をクリアできても、些細なきっかけからすぐに主観的な見方に戻ってしまうかもしれません。もちろん、頭で理解することは重要な一歩ですが、頭で理解するだけではまだまだ足りないことも事実です。

 では、客観視するための具体的な方法とは何か。それは自らの認識が偏っていることを自覚させ、想像力をはじめとした能力を身につけられ、社会(他人)に包含される自己を意識できるものに触れることです。特に主観から引き離してくれる客観性の高いものに触れたら効率が良い。

 例えば、学問のような論理や言語に秀でた、客観的に誰が見ても納得できる物事は貴重です。答えが必ずしも自己にないことを教えられ、想像力をはじめとした能力も伸ばせます。社会(他人)に包含される自己を意識するきっかけにもなるでしょう。

 他にも他人と会話する際、自分の言いたいことを言うよりも、相手の言いたいことを理解し、背景を想像する癖をつけることも有力と思います。ただし、喪失を抱えていたり、自己愛性の高い人ほど、自分の世界に囚われ、相手が見えなくなる点には注意が必要です。

 もし、たった一人でも生きられる状況ならば、人間は自己愛性を際限なく高めること、一切の客観を排除することが喪失を小さくする上で最善かもしれませんが、社会(他人)との接点が消せず、精神的な生にとっても重要な作用があるとしたら、自己愛性だけではなく、社会性との両立を考える方が効率的と考えます。

 

2.喪失と認識、記憶(時間)の関係

 喪失が生じる背景、仕組みには、個人の認識が大きく影響しています。例えば、学歴コンプレックスは社会で学歴が重宝され、あたかも個人の価値を決め切るかのような過剰な認識が形成されたところから、学歴に対するこだわりが強くなり、手に入らなかったときや失ったときの喪失が大きくなっています。

 人間は外的な刺激(および内的な刺激)によって知らず知らずのうちに認識を形成されている部分がありますから、自分でも理由がわからずに喪失を抱えている場合は少なくありません。例えば、20代後半も過ぎたら結婚するという社会的な風潮から、結婚しない自分が結婚する多数派と違うことを感じ取り、結果的に喪失が生じてもおかしくないでしょう。結婚に過敏な反応を示すようになってしまうということ。

 悪口を言われたら傷つくことも、悪口そのものに対する認識が自分に対する非難、存在の否定に繋がっていると思い込んでいるからです。このように「自己の認識に基づいて喪失の多寡が決まっていること」を理解すれば、次に考えるべきことは「自らの認識を変えるにはどうしたら良いか?」という問いになります。

 また、喪失と記憶(時間)の関係についても述べておきます。端的に言うと、嫌なことがあったとき、嫌なことそのものが永続的に自らを苦しめるわけではなく、嫌なことがあったという記憶によって自らを苦しめている事実も確認する必要があります。「嫌なこと」という外的な刺激から、記憶に刻まれ、記憶という内的な情報が刺激となって苦しめていること。

 喪失と記憶(時間)の関係を理解すると、喪失を小さくする手段として「時間の経過」を挙げることもできます。時間が経過するほど記憶は不明瞭なものとなり、いずれは思い出すこともできない状態になるため、思い出されなければ、内的な刺激にもならずに喪失を大きくしないという理屈です。確かにこれは正しいのですが、人間の記憶もまた精神構造(喪失と補完)の影響を受けるため、記憶そのものが改変され、その時々の喪失による補完衝動に巻き込まれる可能性があります。

 この点を押さえておかなければ、逆に記憶として残るものが後に喪失をさらに大きくする火種にならないとも言えません。喪失の寛解において「時間」に頼ることは一長一短です。

 本来、人生とは豊かであるに越したことはないはずですが、認識の形成過程に迫ると、個人の認識は自らの人生の豊かさに最適化されているわけではないことがよくわかります。時に人生の豊かさとはかけ離れた行為、喪失からの補完が平然と行われてしまうのも、そもそも人生の豊かさを前提に生きていないのなら納得のいく話です。特に喪失に駆られた人間は目の前のことしか見えなくなりますから、長期的に継続する行為から得られる豊かさを手に入れられず、補完の手段が限定され、結果的に喪失と補完の収支が破綻しやすいことも発展的にわかります

 この意味においては自らを客観視できたとき、人生の豊かさからあまりに離れた認識や精神構造に苦慮している人はきっと少なくありません。例えば、自己否定が癖になっている人は、自らの選択や行為から補完を得にくくなります。自己愛性が過剰に高まれば、他人との協力関係を上手く構築できません。自身の認識や精神構造が環境や目的と適合していない分だけ、人間は我慢(小さな喪失)を強いられることになります。

 しかし、だからと言って自らの喪失から安易に他人を否定し、補完する行為は選択するべきではありません。なぜなら、その行為の果ては他人に頼らず、喪失を抱え込む者が最終的には切り捨てられてしまうからです。職場でのストレス(喪失)から家族へ八つ当たりしたりして、家族は友人に愚痴を吐き、受け止めきれない友人はまた別の友人に…そうして最終的に辿り着く先は、他人に最も優しい人になります。

 喪失と認識の関係がわかれば、むやみに喪失を抱かない、大きくしない認識に正すことで解決できることがわかります。そう、どれほど大きな喪失を抱えようとも認識一つ変われば、状況は一気に好転します。万が一、大きな喪失を抱えることがあっても、冷静に自らを客観視することから始めれば良いのです。

 

3.認識の是正

 喪失と認識の関係から、認識の変化によって喪失そのものを小さくできる可能性を示唆しました。喪失を大きくしたり、繰り返したり、小さくできない認識(問題点)を見つけ、是正することができれば、自然と喪失は寛解し、新しい精神構造(喪失と補完の循環)のもと、生きることが可能になるはずです。

 しかし、どのように認識の問題点を見つけ、是正するのか。この点について、私は“哲学的に考えること”を推奨します。哲学的に考えるとは、疑問を与え、根本的な部分(認識)に思考を伸ばすこと。例えば、「なぜ、悪口を言われたら傷つくのか?」と問いを立てれば、自身の悪口に対する認識に迫ることができます。

 疑問を与えれば、人間は思考する。この場合の思考は意識的な行為なので、いずれは無意識に還元されます。無意識に還元されれば、内的な刺激として認識の再形成に役立ちます。

 認識の問題点とは、ある目的(前提)の達成を阻んでいる部分です。逆に言うと、ある目的(前提)が不明瞭なうちは問題にならないか、問題があるように感じながらも問題が見えていないということになります。哲学的に考えることは、自分自身の目的(前提)を明瞭にします。

 認識の是正とは、【人間の考察】Part.4「意識と無意識、認識と刺激、作用と反作用」にて刺激から認識が形成されているとした通り、認識の問題点を改善できる認識、すなわち新しい内的な刺激と外的な刺激を生み出す仕組みを構築するということ。自分自身の喪失を大きくする人間関係から離れたり、過去のトラウマから展開される思考を抑えたり、そうやって刺激を変えることができれば、新しい認識が形成されていきます。

 そして、哲学的に考えることの最終地点は「なぜ、生きるのか?」という問いに繋がっています。人間はついつい目の前のことに囚われてしまう性質から、何気ない日常のありがたさや健康である大切さも忘れてしまい、欲張った結果に過ぎない喪失に振り回されていることが少なくありません。

 以前に、人間は社会(他人)と密接に関わりながら成長する都合上、大人になっても他人からの影響が色濃く残っていると述べました。これは物事の根本的な部分よりも、すでにそうなって進んでいるものに取り組み、周りが当たり前に享受しているものほど疑問を持たない癖がついているとも言い換えられます。出発地と目的地がわからないまま、わからないことにも気づかず、ただ闇雲に進んでいる状態です。

 例えば、作品にしても「ファンタジー」ならファンタジーらしいと語られる要素はすでに数多くあり、もはやファンタジーという漠然としたテーマだけを与えられても、おおよそ似たような作品が完成してしまうほどに成熟している面がありますよね。それを超えるためには「執筆の考察」然り、意識的な行為として根本的な部分から構築し直す必要があります。守破離と呼ばれる考え方もあるように、他人から与えられた枠組みの中から脱することは意外と難しいのです。

 自分で考えているようでも、与えられた小さな枠組みの中でしか思考できていないこともあります。悪口に対する反応一つにしても、「なぜ、悪口を言われたら傷つくのか?」という問いを立てる人は少数派でしょう。「悪口を言われたら傷つく」という決まりきった枠組みから離れられない。哲学的に考えるとは難しいことではなくて、根本的な部分(認識)に近づくために疑問を与えるだけです。私も含めた多くの人間が根本的な部分を無視して、目の前のことに囚われているせいで喪失の取り扱いに苦労しています。

 囚われそうになったら、一歩でも引いて物を見る。大変な時は原点にまで戻ってみる(哲学的に考える)。人間は自分以外の特定の対象に触れている時間が長くなるほど、認識は細かくなり、距離は縮まります。だからこそ成長できるとも言えますが、だからこそ問題が大きくなるとも言えます。

「なぜ、生きるのか?」の問いは、「命の在り方」や「死」と向き合うことになり、必然的に人生全体に対する認識を根本から覆せるほどの思考に繋がります。その分、抽象的で複雑な思考に陥りやすいかもしれませんが、腑に落ちたときには個人として最大の力を手に入れられると思っています。おそらく人間は「死の直前」から生に転換した際の力が最も大きい。この理屈から、どれほど追い詰められて「死」が過ったとしても、ピンチはチャンスになり得るということ。もちろん、行動の方針さえ間違わなければ―という条件は付きます。

 肉体にメスを入れ、腫瘍を取り除くように、認識にメスを入れられるようになれば、喪失や喪失に紐づく激しい感情に振り回されることも減ります。人間は自己を客観視できたときから、少しずつ認識や精神構造の問題点を把握し、自己理解に基づいてアレンジしていく過程が人生に不可欠とまで言えるかもしれません。その結果、再び社会(他人)と固有の建設的な関係性を結ぶことができたら、最も大きな幸せを得られるのではないだろうかと思います。

 

終わりに

 もともと持っていた認識は長い年月をかけて形成されていますから、今回の内容を踏まえても、喪失に対する認識の変化や寛解に至るまでには同様に長い年月をかけなければならないことも多いかもしれません。それでも喪失を自覚し、以前よりも自らの手でコントロールできるようになったら問題は小さくなっていくはずです。

 そして、今回の内容も「創作的思考」から発見できた部分は大きかったりします。なぜなら、創作において、自分にしかできない作品の追究が日常茶飯事だからです。自分自身と向き合いながら、作品という客観的な事物に仕上げていく過程は、画一的な環境に身を置くほど経験できないものになります。人間は自分自身にこだわりながらも、見えていないという不思議な状態なのに、普段の生活では自らを客観視する機会を求められることがほとんどありません。

 しかし、今回の内容が理想論と言われても仕方ない部分はあります。というのも、毎日の仕事に忙しくしていたら、頭で考え直すことも心を休息する暇もなく、じっくりとした方針はなかなか採用できないからです。だから同じ言動が習慣化し、損をする人はいつも決まっている状況に陥りやすい。

 さらに言えば、精神的に強くなること、抱え込まざるを得ない喪失を最初から覚悟しておくことも必要と思います。肉体に痛みがあれば、痛みを取り除きたくなりますが、どこまで突き詰めても完全なパランスに至ることはないとき、喪失を小さく、あわよくば消し去る方針は理想論に過ぎませんよね。もちろん、だからと言って喪失を放置し、精神的に病んでしまったり、肉体的に大病を患ってからでは快復するまでに時間もかかります。

 ただ、精神的な強さは他人を切り捨てる冷酷さと勘違いしやすく、自らの喪失と向き合ったり、他人の喪失を背負ったりする優しさに結び付けられない難しさもあります。これは次回以降のテーマとして綴れたらと思います。

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