【人間の考察】Part.7「喪失の自覚、精神構造と欲求、行動の方針」(5377文字)

※このシリーズの経緯と注意事項をまとめた【人間の考察】Part.1「創作的思考と哲学」に一度でも目を通していただけると助かります。

 人間は主観の世界に瞬く間に染まると、想像力も相まって猪突猛進の様相を呈します。特に喪失が絡んでいるときの人間の行動はなかなか歯止めをかけることが難しく、命への尊さを理解する人間であっても、強烈な自己正当化に後押しされて他人を冷酷に切り捨ててしまうことが容易です。

 また、意識と無意識で述べたように、人間は当たり前が増えながら成長する都合上、一つの物事に取り組んでいると認識は細かくなり、要求がエスカレートしていくこともよくあります。これも喪失と補完が絡むと加速し、物事との距離が縮まる弊害が目立つようになります。

 些細なきっかけから人間はアクセルを踏み過ぎてしまうので、建設的な精神構造然り、自らの行動の方針は入念に考えておく必要があるのではないかと思います。ついつい売り言葉に買い言葉になってしまう人ほど、売り言葉に対して思考を挟み、むやみに反応しない方が建設的だったと言える状況も多いはずです。

 

1.喪失の自覚

 喪失をより現実的に落とし込んだ言葉を選べば、コンプレックスです。人間の精神的な生は認識に支えられているとも言えますから、現代社会で主流となる考え方の影響を受けていることは間違いありません。例えば、社会は競争であると教えられれば、優れた自分を確認することが精神的な生に結びつきやすくなります。平たく言えば、自慢と承認の加速。劣った自分では競争に負ける弱い人間と思い込んでしまうわけですね。自己否定(精神的な死)の回避。

 お金や学歴、地位、権力があればあるだけ、社会の中で優れた自分を実感でき、自らの精神的な生が浮かばれるかもしれませんが、競争における勝者は一部であるため、多くの敗者は手に入らなかったそれらをきっかけに喪失が生じるかもしれません。社会(他人)という客観世界の尺度(周囲の評価)から、自己愛性(自己評価)が欠けてしまうということ。もちろん、これはあくまで例えであり、“ある一つの認識”に基づいたものですが、人間は社会(他人)との接点から補完を得られることもあれば、喪失が生じることは事実です。

 喪失(コンプレックス)とは、大小様々な形で全ての人間が持っているもの、精神構造に組み込まれています。前回までの内容から「人間は喪失と補完を繰り返す生き物」と述べた通り、喪失そのものは直ちに悪いものではありませんが、扱いきれないほど大きくなった喪失から引き出される補完行為が社会秩序に反したり、人間関係を歪ませたり、喪失から生じる内的な刺激に延々と苛まれる可能性もあり、原則として小さな喪失に留めておきたいものです。

 しかし、喪失に対して無自覚な人は少なくありません。それは喪失をきっかけに生じる補完行為が精神的な生を賭ける一大事であるため、多くは感情的な状態に陥り、視野の狭まった人間は自らの正当性(自らの生を守ること)だけで頭が一杯になるからです。現実に視認できる形として、目の前の人が傷ついたり、死に至ったり、自らが逮捕されたり、刑に処するような変化を確認しなければ、喪失に基づいた自らの危険な補完行為に気づけない人もいるでしょう。

 それほどまで喪失に駆られた人間は何も見えなくなります。これではさすがに社会(他人)との協力も危ぶまれ、何をきっかけに傍若無人の振る舞いをするかわかりませんから、自身の喪失を自覚し、喪失に基づく補完行為の建設性を徹底的に考えなければならないという結論です。

 自分で自分をコントロールできなくなっているとき、感情的な状態を自覚するとき、等しく喪失に突き動かされていると推定できるため、喪失を自覚するには自分自身を客観視することから始まります。

 

2.精神構造と欲求

 建設的な精神構造とは、(端的に言えば)他人に迷惑をかけずに自立した循環に至ることです。しかし、普段から他人との接点があり、精神構造に無意識に組み込まれると、自分のためと言えるものが不明瞭になってしまいます。そのため、精神構造の自立を目指すには、第一に自分自身を理解する意味で「喪失の自覚」と「欲求の把握」が挙げられます。

 喪失の補完とは、欲求を満たすと同義としていただいて構いません。建設的な精神構造とは、より良い欲求の満たす習慣と言い換えても良いですね。

 人間には三大欲求と呼ばれる「食欲、性欲、睡眠欲」があると語られ、最近では「知識欲」も加えられると耳にしますが、それら以外の欲求を挙げることはなかなか難しい人が多いのではないでしょうか。欲求を把握すると言っても、可視化も定量化もできない欲求はイメージすることすらままならない。となると、楽しかった思い出をローテーションするようになり、凝り固まった精神構造に拍車がかかります。

 また、おそらく(生理的な欲求を除いた)自らの欲求の起源に迫ると、多くはその時代に流行していたものによって構築されています。生まれたばかりの赤ん坊から成人に至るまでは他人からの影響が色濃く残り、自分に合っているものを若くして実感することはかなり少ないかもしれません。創作的思考においては、自分らしさの追究がテーマでもあり、自然な発想ではありますが、普段の生活から趣味の選択においてわざわざ自分と向き合うという人は少数派でしょう。

 そして、人間は同じ物事を繰り返すほど、認識が細かくなり、良くも悪くも要求がエスカレートします。作品なら目が肥えること。思考の成長とは当たり前が増えることであり、今までに認識できなかった問題点を意識下に置き、改善を試みることでさらなる成長に繋げます。だからこそ、優れた作品は驚くべきほど精緻な表現に至ると考えられますが、一方で健康に生きていられる幸せをも忘れてしまい、自らを補完してくれる対象に喪失の分だけ執着してしまうこともあります。

 つまり、多くの人間の欲求は自分自身に最適化されているとは言えず、欲求との付き合い方も一筋縄ではいきません。人間は同じ物事を繰り返せば、慣れてくる。慣れてくれば、飽きてくる。飽きてきても、喪失を幾何か補完してくれるなら惰性になっても続けてしまう。惰性になっても続けていれば、補完がなくても依存しているかもしれません。喪失が大きくなるほど、何もしない現実を肯定し始め、行動力から全てを奪っていく。

 そうならないためにも新しい欲求を見つけたり、既存の欲求を工夫して捉えたり、自己理解を深めて自分にとって大切な欲求を把握しておくという結論です。もちろん、原点回帰するでも良い。何気ない日常の幸せを噛みしめられれば、今までと全く同じ日常でも心を満たしてくれるでしょう。精神構造の自立には、そうやって自分一人でも得られる補完を増やし、喪失に備えることが効率的と考えます。

 ただし、これは次回以降のテーマとしますが、人間は喪失を抱くほど他人の鎧を着ることに安心感があります。他人が言っていることをそのまま武装すれば、否定されても自分が否定されているわけではないからです。経験から純度の高い自己を抽出する方針は有力ですが、喪失という怯えを持っている分だけ、他人の鎧を脱ぐことに抵抗感が生まれてしまいます。自己を見つめると、臆病な自分を直視したり、才能のない自分に嫌気が差すこともあります。そこから大きな自己否定に駆られ、新たな喪失を生み出さないとも言い切れません。

 上記から精神構造の自立が簡単ではないことも事実です。加えて、他人(既存)を利用する方が気軽にできてしまうこともわかります。美味しいものを食べたり、寝たり、恋をして満たせる欲求の程度で十分に循環できれば良いのですが、それが難しいとき、安易に他人を利用し、否定という強度の高い方法から自らを安定させてしまう事情もわからなくはありません。当然、自己愛に満ちた否定は周囲からの信頼を失いやすく、孤立によって次なる喪失に繋がるため、私は推奨しません。

 

3.行動の方針

 人間は大人になるまでに構築される認識や精神構造、喪失の大きさも人それぞれです。自らを客観視できたときから人生が再スタートすると言ってもいいほど、それまで周囲からの刺激に基づく反作用が中心という人も少なくないのではと思います。自己を客観視できない場合、ランダムに形成された精神構造(喪失→補完)の中で延々と同じ行動を選択し続けてしまいます。

 特に喪失は喪失を呼び、肥大化した喪失に基づく補完行為は継続して他人を傷つける可能性もあります。しかし、少し見方を変えれば、それだけ喪失には大きな力が隠されているとも言えます。そう、最終的に問題になる点は「行動の方針」です。

 悪口を言われたら、悪口を言い返す。これは喪失が生じた際の手っ取り早い補完行為ですが、例えば、作品が有名になり、賛否両論の評価を何万人、何十万人から受けるようになったとして、喪失を生み出すような否定的な意見を述べる全員に言い返していたらきりがありません。しかも悪口を言い返したらスッキリするとも限らない。

 それならば、悪口を言われたら、作品に集中する。喪失を原動力に換え、少しでも多くの人を幸せにする方針さえ違わなければ、向かい風が吹く度に今よりも成長した自分、信頼する人々を獲得できる理屈になります。信頼してくれる人々が増えれば、自らの価値を高らかに叫ばずとも周りが肯定し続けてくれます逆に喪失を原動力にも換えられず、他人に迷惑をかけるような方針を選びかねないうちは、できる限り喪失を小さく留めることが一番です。

 作用と反作用の関係からして、喪失をきっかけに他人を利用する補完行為は連鎖します。負の連鎖であれば、誰かがどこかで断ち切らなければなりません。その断ち切り方が誰かの命を犠牲にするということがないように、私たちは常に自らの喪失を自覚し、少しずつでもより良い精神構造を確立していくべきと思います。

 もちろん、これは一つの理想です。悪口を言われたら、作品に集中すると言っても、最初のうちは傷ついた心が尾を引き、なかなか集中できなくてもおかしくありません。感受性と想像力が豊かならなおのこと。喪失を原動力化する難点は、喪失に対する刺激が瞬く間に感情的な状態に陥らせることが挙げられます。感情的な状態に陥った人間は冷静に行動を吟味できません。加えて、大きな喪失を抱え続けることは難しく、人間は楽になりたい一心で全てを吐き出そうと試みるでしょう。

 また、行動の方針の是非については自己愛性と社会性の問題が浮上します。前回までに述べたように、社会性は他人を守るもの。自己愛性の高い人がいくら行動の方針を吟味しても、自分にとって得をするものばかりで他人への優しさにはなかなか結び付きません。これではいつまで経っても、自己への執着が消えず、争いの火種になり続けてしまいます。争いを生みかねない方針は率直に疑問です。

 そこに複数の人間がいる環境において、自己に執着する人がいればいるほどまとまらないことは誰もが実感するところと思います。とは言え、自己愛性を徹底的に無視すれば、持続性のない自己犠牲が展開されてしまいます。これを解決するには「自己愛性を高める場面」と「社会性を高める場面」を見極めることになるでしょうか。二つのバランスをより良く保つ方法は次回以降のテーマとして綴ります。

 

終わりに

 世の中で活躍されている方の中でも、大きな喪失を抱えながら成功を収める人はかなり多く見受けられます。喪失を原動力に変換する精神構造は非常に強い。

 普通の人が成し遂げられないことを実現するには、大きなエネルギーを必要とし、大きなエネルギーを喪失から調達しているイメージです。ただ、成功してもなお喪失の扱いに苦慮されている様子が窺えることも少なくありません。成功したことから他人に新たな喪失を与えてしまうことも。喪失の原動力化は、究極的に喪失の根源である「死の運命」すらも原動力に換えることであり、よく語られる「今を生きる」に繋がります。

 それと一つ補足しておきます。「悪口を言われたら、作品に集中する」という方針は理想の一つですが、感受性や想像力が豊かな人ほど難しい理想として映るかと思います。さらに優しい人ほど「悪口を言われたら、言い返さずに抱え込む」という方針を選択しがちなので、喪失の肥大化に苦慮されていることでしょう。

 しかし、その感受性と想像力、優しさを持つ同様の他人と協力関係を結べたとき、何倍もの力に昇華させることができるはずです。何となく他人と一緒にいることが協力ではなく、お互いを理解し、精神構造の補完関係を具体的にイメージできることこそ真の協力だろうと思います。そのためには感受性と想像力、優しさがあるに越したことはありません。どうしても他人の感情の情報を細かく認識できてしまうと、情報処理に追われ、生きづらさを感じやすいのですが、他人との協力においては唯一無二の才能として重宝され得るものです。

※この日記へのリンクは原則として自由に貼っていただいて構いませんが、悪意のある目的(スパムや誹謗中傷、評判を貶めるなど)での利用は禁じます。