【人間の考察】Part.6「感受性、想像力、精神構造」(4959文字)

※このシリーズの経緯と注意事項をまとめた【人間の考察】Part.1「創作的思考と哲学」に一度でも目を通していただけると助かります。

 前回までの内容は人間を捉える際の前提として機能し得るものとなり、今回からはまだまだ抽象的な階層ではあるものの、現実的に実感しやすい内容になります。また、今後はより日常的な事例から人間を紐解けるような試みを繰り返していくことになりそうです。言葉の分析と言い換えても良い。

 そして、今回は「感受性、想像力、精神構造」ということで感情の情報収集機能を中心に取り扱います。それらは自分にしかわからないものでありがながらも、全ての人間に備わる機能でもあります。

 外的な刺激の中でも、特に社会(他人)の感情には敏感な人も多いはずです。日本はハイコンテクスト文化の影響もあってか、空気を読み、言動から他人の感情を推し量る癖を持ち合わせているのかもしれません。昨今はHSPのように繊細な人が増えてきているという指摘もあり、SNS文化の隆盛を背景に、他人との過剰な比較が弊害として現れているのではないかとも考えられます。

 

1.感受性

 人間関係の中枢として機能するものは「感情」と言っても過言ではないかもしれません。当然、言語や論理のような客観的に機能し得るものも重要と言えますが、人間が人間足らしめるものは論理だけで推し量れない複雑な感情あってこそと思われます。いくら論理で正当性を説かれても、感情が追い付かないものをなかなか受け入れることができません。

 そんな「感情」の情報を得ることは、人間関係を円滑にする基礎でもあり、感受性と呼ばれる機能が発達しているほど自分や相手にとって心地の良い態度や言葉を選択できる期待が持てます。感受性とは、感情の情報を得るアンテナ。

 よく作家に求められる資質に感受性の豊かさや想像力が挙げられます。これはなぜかというと、人物の機微を表現するためには人物を知らなくてはならず、人物を知るには感情の情報を具に観測できることが重要だからです。認識できないものを表現することはできない。現実でも、他人を理解するなら抱いている気持ちを把握できるに越したことはありません。その人がそのときに何を思い、何を感じ、何を考えていたのかという情報を相手の言動から細かく認識できる人の方が気持ちに寄り添うことは可能ですよね。

 人間は社会を生き抜くため、人間関係を避けて通ることはできません。そういった事情からも、基本的に感受性は全ての人間の機能として備わっているものと思います。もし、人間に感受性が備わっていなかったら、他人との協力なんて夢物語にもならないかもしれません。お互いに傷つけ合うだけかもしれません。ただ、運動神経が良い人もいれば、そうでない人もいるように、感受性が豊かな人もいれば、そうではない人もいるでしょう。さらに感受性の感度は“自身の喪失”にも左右されます。

「感受性と喪失の関係」とは、外的な刺激をより多く得ることが警戒心(喪失)に起因しているということ。例えば、人間は気分が落ち込んでいるときに情報量の多いものや明るい対象に触れることを避ける傾向があります。これは外的な刺激から不安定にならないための無意識であり、自身が危険な状態に陥っているときほど、より危険な状態に陥らせないためにアンテナの感度が高まるのです。些細なことで苛立つようになったり、他人の発言を根に持ったり、自身の喪失によって敏感になった感受性は小さな刺激を大きな刺激として捉えます。

 もちろん、大きな刺激として捉えた分だけ精神が不安定にさせられますから、反作用として引き出される行動も明確なものになります。だからこそ疲れているときに顕現します。疲れているときほど、自分以外の事情なんてどうでも良くなってしまう。普段だったら何気ない一言を気になっているときは、精神が疲弊しているわかりやすい例ですね。

 感受性は接尾辞に「—性」と付いているように、性質であり、性質とは意図せずとも発揮される機能ですから、感受性は内外の感情の情報を無条件に拾い集めてしまうため、自ら遮断しない限り、延々と刺激に晒され続けてしまう不器用な機能と言えます(内的な刺激は遮断さえ難しい)。そして、前回までの内容から「刺激」は自身の認識を形成、変化し続ける契機なので、感受性が豊かな人ほど自分と社会(他人)からの影響によって変化しやすいことがわかります。

 

2.想像力

「想像力」とは、自身の頭の中だけで思い描く力であり、この文脈では「感受性」と対になるものとして考えていただけたらと思います。人間は自らに備わる感受性と想像力を中心に、他人を捉え、主観を構築しています。現実にある刺激から想像という名の自己世界を開くわけです。

 想像力もまた自らの喪失と関係していますから、想像する内容は客観的な世界を正しく映しているとは限りません。自らの喪失が大きいほど、自分自身に“都合の良い情報”を思い浮かべるようになっています(自らの生と死に翻弄されている)。ただ、補足として「自分自身に都合の良い情報」が必ず「生(肯定)」を目指すものではないということ。死が肯定され得る状況においては自分自身に害のある解釈を正しいと思い込みます。平たく言えば、自己否定の癖がある人は想像する内容も自分を否定するためのものばかりになります。

 例えば、言葉の意味にしても、直接的な意味だけを正確に読み取れる人は少なく、特に(喪失に駆られた)感情的な状態では、直接的な意味から大きく逸脱しても全く気付かず、何なら歪曲も辞さない構えで徹底的に自己正当化を図ります。不安定になった精神を強引に安定させるには、客観的な正しさよりも、主観的な正しさが大きく勝るわけです。想像力は現実にあるものを、現実にないほど大きいものとして良くも悪くも変換できてしまいます。

 こうした文章も、筆者の感情的な情報が読み取れる場合は読み手の理解が安定しないことがあります。感情的に書き殴った文章ほど読み手の感受性が刺激され、想像力によって主観を構築させてしまうからです。日常的な話し合いも、お互いが冷静でなければ始まらないのは誰もが実感するところと思います。

 他にも、嫌いな人の言動は一から十まで否定したくなる衝動があるかと思います。これは「嫌い」という否定的な感情を抱くことが自身の精神の安定に寄与しているからであって、嫌いな対象から想像するものは「全て対象が悪い」と結論づけられるものばかりになります。汚い言葉を吐いたとき、嫌っている対象なら「おかしい、信じられない」と思い、逆に好きな対象なら「人間は完璧ではないのだから、そういうときもあるだろう」と擁護するでしょう。

 繰り返すようですが、想像力は現実を捉えようとしながらも、現実でないものまであたかも現実であるかのように錯覚してしまう力があります。だからこそ、私は物語を書けるとも言えますし、小さな幸せを噛みしめることもできるわけですが、感受性と想像力によって主観が大きくなりすぎる弊害も自覚しています。

 そして、人間に備わる社会性は主観的な自己(自己愛性)を否定します。社会性の高まりは客観世界に近づくことと同義であり、学問を勉強したり、他人に触れたりして自分だけの世界に終始しないようにバランスを保ちます。言語は最も身近な客観世界でしょうか。

 

3.精神構造

 精神構造とは、喪失と補完の循環のこと。例えば、ストレスを抱えたとき(喪失状態)、美味しいものを食べたり、カラオケに行ったり、ゲームをしたり、喪失から至る補完行為はおおよそ普段の生活の中で確立しています。この喪失と補完の関係、全体の循環を指して「精神構造」と呼んでいます。

 精神構造は個人のあらゆる事情によって千差万別です。社会や文化、生活様式、時代、歴史、個人の経験、思考、趣味嗜好などの影響を受けて確立していると考えています。それは認識に基づくストレス管理帳とも言い換えられるものですから当然としても、意識的に構築している人はほとんどいないかもしれません。個人の収支と支出ならお金の計算で簡単に把握できますが、精神構造は定量化できるものではなく、環境に適応する形で無意識に確立されてしまいます。

 精神構造が社会的に望まれないものである場合、他人に迷惑をかけたり、法によって裁かれる可能性もあるため、ある程度は社会に即した精神構造を確立するべきと私は思っています。本来は全ての人間が向き合うもの。ストレスを抱えたからと言って、他人を殴って発散することは許されないわけです。そうなってしまった場合、無意識に確立されたものを意識的に修正していくことになります。

 他人に迷惑をかけるまでならなくとも、ストレス過多(大きな喪失)は一気に悪循環に陥る可能性があるため、どこかで精神構造を客観視しながら調整する必要が誰にでもあるのではないかと思っています。環境が変われば、それまで確立していた精神構造では頼りなくなることはよくあります。外的な刺激は予測が難しいため、精神的な余裕をできる限り確保したり、ストレスを即座に大きく発散できる方法を実践したり、そうでもしないと日々の不安定さに段々と手詰まりになっていくでしょう。

 また、昨今のパワハラやマウントのように、他人を利用した補完行為(ストレス発散)とも言い換えられるものも良くありません。基本的に精神構造は自立していた方がより良く、経済的な自立と同様に他人を前提に構築するべきではありません。誰にも迷惑をかけず、自分で自分の楽しいことを見つけ、打ち込み、ストレス発散できることが理想です。

 もう少し具体的に言うと、他人を前提に構築されたものは不安定になりやすく、他人がいなくなったときに自分で自分の楽しいことすら見つけられずにストレス過多に陥ることが容易なのです。他人との協力関係でしか実現し得ないストレス発散(補完)は+αであって、必要最低限、日々の生活の分は自分で賄えるような精神構造が第一と思います。

 そして、そうした精神構造を確立するためには、感受性と想像力が大きな力になります。感受性が豊かな人は感情の発生から消滅、全体の流れを逐次的に追えますから、その気になれば、精神構造に問題を抱え、些細な刺激から崩壊しかねない人を見分けることもできるはずです。自分自身が一体どのような精神構造を持っているのか。これを知るためには普段から自分の精神(心)の動きを追っていないとわかりませんから。

 ここ数年でSNSを利用する人がかなり増えていますが、SNSもまた自身の精神構造に取り込まれるものです。もし、喪失を補完するためにSNSを利用しているとしたら、悪い意味で習慣化し、SNSの枠組みの中でしか生きられないと言ってもおかしくない状態が予想されます。端的に言えば、依存ですね。SNSが自身の生活を豊かにしてくれるとしたら、一体どういう部分がそうさせるのか。この問いの答えを明確にして、適切な距離感を維持できなければ、なかなかに難しいツールと感じています。

 SNSによって自分以外の人間の情報を膨大に得ることができるようになったということは、それだけ人間が解き明かされつつあると言えるでしょうか。往々にしてパワハラは上の世代から下の世代に対して生じる問題なのも、(SNSを身近にする)下の世代ほど他人を観察して知っているから、上の世代の不作法な関係性の構築に気づくのかもしれませんね。

 人間は身近にいる他人や物事と繋がり、自分自身の喪失と補完の対象として認識します。それは誰もが孤独の不安を抱えているからですが、だからと言って他人に寄りかかろうとすれば、負担にもなりかねず、信頼関係なき相手に意図することは得策ではありません。モテようとする人がモテない理由と同じです。

 今回は用語説明のような内容になってしまいましたが、今後は前回までの内容を人間の原則として、日常的な例から解き明かせたらと思います。

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