【人間の考察】Part.5「人間の自己愛性と社会性」(4088文字)

※このシリーズの経緯と注意事項をまとめた【人間の考察】Part.1「創作的思考と哲学」に一度でも目を通していただけると助かります。

 前回までの内容は人間に備わる自己を一つと仮定して話を進めていましたが、現実的に人間の自己は二つあると解釈した方が腑に落ちる場面は多いのではないかと考えています。今回は、その二つの自己においても喪失と補完が繰り返されているという見方に繋げます。

 端的に言うならば、自己を犠牲にして他人のために行動を起こす理由を納得するための内容です。一見すると、他人のための行動でも、実は自分のためなのではないかと邪推してしまう直観の正体と言っても良いですね。

 そして、人間の自己愛性と社会性に迫ると、普段は矛盾を忌み嫌う人間が実は大いに矛盾していることに気づくかもしれません。

 

1.人間と社会(他人)は切り離せない

 人間が生と死の運命から逃れられないように、社会(他人)との接点を消すことはできません。家族とも断絶し、人里離れた山奥で自給自足の生活を送ろうとも、電子機器を通じて他人に関する何らかの情報は得ることでしょう。他人と言わず、動物や昆虫であっても良い。自分以外のあらゆるものとの接点は常に存在し続けています。

 人間が精神的な生を全うするために自分以外の存在を認識し、同時に自分自身の認識に繋げているとしたらなおのこと接点は消せないだろうと思います。自己の認識への繋がりやすさからしても、同じ人間である他人の存在はとりわけ重要なこともわかります。とは言え、日常的に自分と社会(他人)がそれこそ一心同体のように繋がり合っている実感は湧きませんよね。毎日を懸命に生きるほど、人間は自分のことしか見えなくなりますから。

 しかし、前回に述べた「作用と反作用」の例からして、人間は自らの自由意思で常に選択しているというよりも、自覚なき他人からの作用に突き動かされている部分があるとすれば、社会(他人)に包含された自己を併せ持っていると考えられます。人間に備わる「無意識」の一部は、社会(他人)であるということ。実際は「意識」すらもそうかもしれません。認識の形成過程に迫れば、常に社会(他人)を外的な刺激として、内的な刺激を生み出して忙しなく変化し続けていますから、もはや純粋な自己の存在を見つけることの方が難易度は高い気もします。

 一方、人間が自らに自由意思があると思い込む根拠とは、おそらく他人と決して相容れない肉体を持ち、たった一つの命を自覚していることにあります。平たく言えば、身体の動作一つにしても、誰に操作されるでもなく、自らの力(脳からの指令)によって為されている事実です。人間にとっての自己とは、自分にしか許されない命の感触。

 つまり、人間(個人)を捉えるにあたり、個人そのものだけを捉えてもあまり意味がないことがわかります。誰もがある時代を生き、その時代の生活様式や流行した価値観、家族、異なる世代との交流、地球の重力など外的な刺激になり得るあらゆる要素から影響を受け続けています。人間は一人で生きているようで生きていない。個人のようで個人ではないのです。

 

2.自己愛性と社会性

 人間は個人のようで個人ではない。個人を感じさせる部分と個人ではないような部分を、それぞれ自己愛性と社会性という二つの自己と解釈しています。

 自己愛性とは、何よりも優先されるべきものは自分自身と言わんばかりの性質です。基本的に人間は他人の自己愛性を感じることに忌避感があります。特に競争相手として認識しているほど大きくなるでしょう。なぜ、忌避感があるのかというと、社会(他人)、相手から見た自己を蔑ろにしているように映るからです。社会(他人)との関係は原則として協力ありきですから、自己愛が前面に押し出ている人との関係は大抵うまくいきません。

 社会性とは、何よりも優先されるべきものは社会(他人)であるという性質です。他人への気遣いは社会性の証。こちらは当然社会(他人)から歓迎されやすいのですが、あまりに社会性を顕現させてしまうと自己を見失うかもしれません。常に社会(他人)のためにあろうとしますから、尽くすべき対象がいないときに戻るべき自己がなくて虚無感に襲われるのだろうと思います。

 それら二つの自己は明確に切り替わるよりも、混在し、曖昧な状態のまま一つの形を成しているイメージです。無自覚な場合がほとんどで場面に応じて顕現する性質は異なります。顕現していない方も消えることはありません。例えば、一人でいる部屋の中では自己愛性が顕現しますし、学校や職場では社会性が顕現するでしょう。無自覚な場合が多い理由は、人間は自らの持つ性質に無頓着であり、自分自身を客観視することが苦手だからです。

 もう少し具体的に言うなら、一人でいる部屋の中とは「誰にも干渉されない世界」とも言い表せます。誰もが持つ唯一無二の自己世界、主観と同じということ。そして、擬似的な自己世界の中における人間の行動は、誰もがひどく自分勝手なことを自覚しているはずです。トイレに行くのも、食事をするのも自らの意思で行えますから、何より優先されるべきものは自分自身という状態が築かれます。自らに備わる自己愛性を観測するなら、部屋にいる自分自身を知ることが一番かもしれませんね。車の中やインターネット上の空間もまた自己愛性を加速させます。

 このように環境に対する認識一つで顕現しやすい性質は異なり、さらに自らの喪失と補完、精神構造の影響も受けます。例えば、自らの命が危ぶまれるような状況では、強い生の意志が反作用として引き出されることが予想されますから、強固な自己愛性が顕現してもおかしくありません。逆に自分を温かく慕ってくれる環境にいたら、命への過剰な執着は反作用として生じず、他人を優先する強固な社会性が顕現されるかもしれません。親子の無償の愛は、社会性を育む代表的な例ですね。

 自己愛性が顕現するとは、自らを守るということ。社会性が顕現するとは、他人を守るということ。繰り返しますが、自己愛性と社会性は混在しているため、人間の行動からは自分のためでもあり、他人のためでもある行動が頻繁に窺えます。どちらかに振り切っている方が珍しい。

 

3.自己の中心は自己愛性か、社会性か

 自己完結する行動だけを説明するなら、(前回まで仮定していた一つの自己)自己愛性に着目すれば良いのですが、他己完結する行動はもう一つの自己によって行われるものか、それとも他己完結もまた自己愛の一種なのかという疑問はあります。私は「自己犠牲」が自己愛によって為されているとは思えないままなので、少なくとも自己は二つあると仮定しました。

 究極的な自己犠牲とは、自らに一切の得がなく、損しかしない状況においても、社会(他人)の得のために行動することです。時には自分の命さえ投げ出して、川で溺れる子供を助けに飛び込む親のような行為を究極的な自己犠牲と定義しています。ただ、これは次回以降に綴りますが、精神の循環が行われる関係性において他人(自分以外)に自己と近い感覚を抱くことはあると思っています。なので、自分の子供を助けるとき、自分自身を助けるような直感が働いていてもおかしくありません。この場合、自己愛に基づく自己犠牲という見方もできます。

 あるいは自己の中心という観点がそもそも間違っていて、中心もなく、常に自己愛性と社会性が並列で稼働しているようなイメージもあり得ます。人間は直感的に二つの答えを常に用意していて、瞬間的に自己愛性と社会性を選択した上で顕現しているということ。この場合、中心に置かれた陰にもう一つの概念が隠れ続けることはありません。

 他にも優先されるべき上位と下位の関係性も考えられます。上位になる概念が自己愛性か、社会性かは人それぞれ。この場合、上位になる概念の陰に隠れるもう一つの概念は顕現しにくいという見方ができます。利己的な人もいれば、利他的な人もいるのは、上位下位の関係性を想像したら納得しやすい。

 昨今、自己肯定感を高めることがもてはやされているような印象ですが、上記の自己イメージに基づくと、自己肯定感とは自己愛性を指し、自己愛性を高めることは確かに個人にとって居心地の良い響きになります。しかし、基本的に自己愛性が高まると社会性は低くなるので、自己愛性と解釈できる自己肯定感を高める方針は一長一短となります。例えば、自分の行動や意見から全て正しいと思い込むことも自己肯定感(自己愛性)を高めることに繋がりますが、他人との関係では支障をきたしてもおかしくありませんよね。

 そうではなく、もっと根本的な部分のみ、自らの存在を肯定するという広い意味での自己肯定感を高めるなら有力な方針になり得ると思います。現実に視認できる行動レベルの肯定は融通が利かなくなり、誤った状況が明らかになっても失敗を認められなくなることが少なくありません。人間は失敗し、大きな喪失を抱えても、常に原点に戻ることで精神を再び一から構築できる良さがあるのに自ら奪ってしまう形になるのです。

 実際のところ、自己がどんなイメージに落ち着くことが正しいかどうかなんて誰にもわかりませんが、最も腑に落ちる自己イメージを持つこと自体は自分自身を簡明に捉えるきっかけにはなります。

 今までに人間の行動原理(生と死、喪失と補完)から、意識と無意識、認識と刺激、作用と反作用と続き、さらにそれらを二つの大きな自己(自己愛性と社会性)が管理していると説明しましたが、人間は一歩踏み出すと複雑怪奇な様相を呈して一気に捉えどころが難しくなります。生と死、社会(他人)との接点は人間にとって絶対的な事実なので、その点だけで考えるのなら多少は簡明に見えますが、変化し続けるものを捉えることは非常に難しいと痛感しています。

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