【人間の考察】Part.4「意識と無意識、認識と刺激、作用と反作用」(5351文字)

※このシリーズの経緯と注意事項をまとめた【人間の考察】Part.1「創作的思考と哲学」に一度でも目を通していただけると助かります。

 前回の内容では、人間が喪失と補完を繰り返しながら生きていることを把握し、時に大きくなりすぎた喪失によって死に向かう可能性もあることを述べました。今回は「何を以て喪失とするのか、何を以て補完とするのか」を決定づける認識(自己フィルター)を中心に綴ります。

 肉体的な生の循環は共通する部分も多いけれど、精神的な生の循環は千差万別です。その千差万別を決定する重要な役割を担う認識(自己フィルター)の機能があり、精神的な生の循環の全体を指して「精神構造」と呼んでいます。より良い生を全うするなら、人間は社会的にも自己中心的にも折り合いをつけられる“建設的な精神構造”を個人的には推奨しています。精神構造の構築には、自身の認識を把握することが不可欠であり、今回は自分自身に備わる認識をイメージできるような内容となっています。

 

1.意識と無意識

 人間は自我が目覚めた頃に、自らが生と死の運命にあることを知ります。なぜ、そういう運命にあるのかといった疑問を考える暇もなく、そうなってしまっているからそうなのだと納得するしかありません。これを一因として、人間は普段から生と死を実感しているわけではなく、大病を患ったり、九死に一生を得たり、生と死が間近に迫る場面でようやく思い出します

 こうした“すでにそうなっている事象”は意外と多いものです。例えば、生まれたときから社会(他人)があることもそうですし、心臓が鼓動を打ち続けていることもそうです。人間が意識的に起源から把握できるものは全体のごく一部か、もしかしたら全くないかもしれません。自分も含め、世の中にある多くのものが知らず知らずのうちに成立しています。

 また、意識的に把握したものであっても、いつからか無意識的な領域に追いやれることもよくあります。例えば、自転車の乗り方を習得した後、身体の動きを逐次的に頭で追うことはありませんよね。勝手に身体が動き、勝手に動く身体を意識することはなくなります。勉強やスポーツ、ゲームなどのあらゆる分野でも、できるようになったものはどんどん無意識的な領域に追いやられ、意識的な領域には新しいものやできないことが中心に置かれているかと思います。

 これは人間が成長するために不可欠な思考原理なのでしょう。確かにできるようになったにも拘わらず、常に意識的に行わなければならないとしたら非常に効率が悪い。二つ使えるものがあるなら、二つ使った方が効率が良い。人間は「意識と無意識」を同時に展開しながら物事を捉えることで、不必要な部分を省き、必要な部分だけ重点的に学習できるようにしています。加えて、意識的な領域よりも無意識的な領域の方が圧倒的に大きいことを実感しているはずです。

 ここで「認識」「意識、無意識」ついて整理しておきます。

「認識」とは、外的なあらゆる情報(刺激)が内的なものに変換される際に機能するものとしています。自己フィルター。見たり聞いたりする「知覚」と同義ですが、この文脈に合わせて正すなら「主観的な知覚」と訳したいところです。認識した情報と言えば、「自分自身の中に取り込んだ知覚情報」となります。

「意識」とは、明瞭な意図を持つこと。「無意識」とは、明瞭な意図を持っていないこと。明瞭な意図とは、逐次的に頭を働かせるとでも言いましょうか。肉体で言えば、一歩ずつ山道を登っている感覚が生じている状態は意識的であり、自分自身が歩いていることを忘れながらも登っている状態は無意識的としています。

 認識と意識、無意識は異なるものであり、意識的な認識もあれば、無意識的な認識もあるということです。無意識的な認識の情報とは、明瞭な意図を持たずに取り込まれる情報になりますから、人間は自分のことであっても気づきにくく、自身の大きな変化を探るなどして仮説を立てることが限界かもしれません。個人の認識に迫るには意識的な認識を把握するだけでは足りず、無意識的な認識を把握する必要があります。無意識的な領域の方が圧倒的に大きいならなおのこと。

 そのため、人間の問題の本質は「無意識的な領域」に隠されていることが多く、問題を発見することも是正することも容易ではありません。普段の私たちの思考原理は、意識的な領域から無意識的な領域への移行にかなり偏っているので、問題を本質的に解決するには無意識的な領域を開拓し、意識的な領域に戻す作業が必要になることがわかります。そして、再び無意識的な領域に戻すことでようやく普段の振る舞いが是正されたことになります。

 人間は目の前にあるものを全て一度に、且つ意識的に捉えているとは基本的に考えにくく、意識と無意識の両方で捉えていること。両方で捉えたものが認識(自己フィルター)を経て、自分自身の取り扱える情報に変換されていることを押さえておきました。

 

2.認識と刺激

「刺激」とは、自分自身に働きかけるあらゆるものを指した言葉です。大きく分けるなら、自分自身から生じる内的な刺激、自分以外から生じる外的な刺激としています。

「情報」と少し似ていますが、情報は“取り扱うもの”という意味合いが強く、情報を得ると言っても自分自身が変化するとは限りません。その点で刺激を受けると言えば、自分自身に何らかの変化が生じることを示唆しています。ちなみに情報そのものは外的な刺激になり得るものです。

 自分自身の認識が一体どのように構築されるのか。これをイメージするために「刺激」の概念を捉えておく必要があると考えました。

 時に人間の性善説や性悪説が囁かれることもありますが、人間は生まれたときには真っ白なキャンバスであり、後天的に善悪を学んでいくのではないかと私は考えています。少なくとも後天的な学びの方が善悪の価値観に与える影響は大きく、元を辿ったときに現れるものは幼少期からの蓄積された経験という気がします。もちろん、実際のところはわかりません。人間の性格は半ば遺伝的に決まっているとの説も耳にしますから、あくまでそのように捉えておく程度の話です。

 そして「後天的な学び」とは、ありとあらゆる経験から生じた外的と内的な刺激を指しています。その刺激によって、自己と社会(他人)との接点にある「認識」が形成されたのではないかということです。

 では、外的な刺激とは何か。外的な刺激から形成される認識のイメージ。例えば、悪口を言う集団に属した場合、いかにして悪口を言うか、あるいは悪口には悪口で対抗するのかという視点ばかりに偏ることになるでしょう。悪口を言う行為そのものの是非ではなく、悪口を言うことが当たり前であるという前提のもと、自身の行動を環境に最適化するわけです。この集団において、悪口を言う行為そのものに罪の意識を抱くことは難しい、すなわち集団(環境)の価値観を外的な刺激として、そのまま自身の価値観、認識として取り込まれます。

 反対に、悪口を言わない集団に属した場合、悪口を言うことが環境から逸脱した行為になるため、少なくとも悪口を言う行為そのものが当たり前であるとは思わないはずです。あまりに単純化した例ではありますが、特に生まれたばかりの子供のように何もわからず、何も知らない状態において、環境から得られる情報をもとにすることは生存戦略や環境適応の観点からも必然的な状態なのではないかと考えます。情報は全くないより、多少はあった方が良いという直観は誰にでもあるはず。

 一方、内的な刺激とは何か。これは自分自身の気持ちや記憶、経験、思考の結果として内的に自分自身に変化を及ぼす情報のことです。例えば、先に述べた「悪口を言う集団」から「悪口を言わない集団」に移行すると、環境から得られる情報と自身に内在する情報に差が生じます。今までに形成された認識との差と言っても良い。情報の差から思考が展開された結果、自分自身にとって意味のある情報となれば「内的な刺激」と言えるものです。

 そうした種々の外的な刺激と内的な刺激が何度も繰り返された結果、自分自身の認識が形成されています。ただし、形成されたと言っても、全体は茫漠としており、少しずつ変化も続けている中で僅かに確からしいと感じられる一部に過ぎません。

 おそらく人間は絶えず環境(社会や他人など)から情報を得て、自分自身と環境との違いを確認し、意味を生み出しています。これもまた精神的な生の確認と思われます。環境に触れている感覚が一切なくなると、自分自身を認識できなくなる直観があるのでしょう。例えば、歳を重ねると独り言が多くなると言われます。これは若い頃に比べて他人との関わりが希薄になったり、人生の末期を悟り始めたりすることによって、環境に触れている実感(生の確認)を求めての無意識的な行動と考えられなくもありません。

 物に触れると、物に触れられているとも言えますよね。物に触れる前よりも、触れた後の方が自身の肌の感触がわかるわけです(差を知ることから)。これを端的に言うと、生の確認。「刺激のない人生なんておもしろくない」とはまさにその通りなのかもしれません。

 

3.作用と反作用

 作用と反作用とは、外的な刺激に対応した内的な刺激、あるいは内的な刺激に対応した外的な刺激(行動)の関係性を指した言葉です。ある刺激が自身に作用したら、必ず対応した反作用が生じるということ。

 例えば、悪口を言われた際、多くの人間は嫌な気分に陥り、嫌な気分を振り払うように悪口を言い返すという変遷を辿ります。言い換えると、悪口という外的な刺激に対して、嫌な気分という内的な刺激が生じ、その内的な刺激から、悪口を言い返すという(他人に向けた)外的な刺激に至っています。「悪口」の作用に「嫌な気分」の反作用。「嫌な気分」の作用に「悪口を言い返す」の反作用が確認できます。

 もちろん、悪口を言い返すかどうかは個人の認識によりますが、内的な刺激が生じたあとには何らかの外的な刺激には至るものと考えています。例えば、直接的に言い返さずとも友人に愚痴を吐露したり、一人で抱え込んだり、全く別の行動に変換したりします。ちなみに「一人で抱え込む」とは外的な刺激に至っていないようにも見えますが、自分自身を外的な刺激(行動を起こさない行動と言うべきか)として内的な刺激との相殺が行われているので作用と反作用の関係にあるとしています。

 では、なぜ作用と反作用の機能が人間に備わっているのか。結論から言えば、おそらく人間は急激に変化することができないからです。特に外的な刺激は予測不可能な場合も多いので、反作用として「否定」を備えている人はとても多いと思います。ある意味、肉体と精神を守るための機能ですね。

 人間は少しずつ変化し続けている生き物でありながらも、急激な変化の要求には応えられません。それは人間が自らの自由意思のみで生きていないとすれば、社会や他人、時代といった概念と紐づきながら生きているからかもしれません。往々にして変化とは刷新を意味しますから、古い時代と紐づいた人間は取り残される感覚(精神的な死)を予感するのでしょう。「自分たちの時代、私たちの世代」という言葉の裏には、人生を全うする人間の不安(喪失)が大きな概念を呼び寄せたと言えなくもない気がします。

「人間は自らの自由意思だけで生きていない」とは、無意識の存在然り、作用と反作用の関係を認めるとき、外的な刺激の反作用として突き動かされることがあるという意味です。不随意運動、反射。言語の限界とは別に、自らの行動の理由を説明できない場面は少なくありません。

 また、作用と反作用の関係を社会的に捉えると、人間の行動は全体と繋がっている、および影響を与え続けるものという見方もできます。

 湖に投げた石が全体に波紋を広げるように、ひとりの人間の行動は作用となり、他人の反作用を生み出します。さらにその他人の反作用(作用)が別の誰かの反作用を生み出し、阻害するものもなければ、ひとりの人間の行動が間接的な影響を全体に与え続けていることになります。ひとりの人間ならまだ想像できるかもしれませんが、人間社会にいる人々がそのように影響し合っている様相を捉えることは相当に困難です。

 ただ、人間社会を紐解く力学として作用と反作用を押さえておけば、自分の些細な行動一つであっても、他人に重要な意味を持たせたり、喜ばせたり、悲しませたり、さらにそこから別の他人へと繋がっていくことは想像できるかと思います。

 今回は「意識と無意識、認識と刺激、作用と反作用」ということで人間の認識を中心に説明しました。自分と自分以外のものが触れ合う接点において、人間はどのように捉え、どのように影響を受け、どのように反応するのか。言葉足らずとも言えますが、短い説明でも読者の直観に即すものであったら幸いです。

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