【人間の考察】Part.3「人間の行動原理(喪失と補完)」(5013文字)

※このシリーズの経緯と注意事項をまとめた【人間の考察】Part.1「創作的思考と哲学」に一度でも目を通していただけると助かります。

 前回の内容では、人間に共通する生と死について触れ、それらが行動原理として機能していることを把握しました。付随して、肉体と精神、存在の認識、不安の正体など紐解くべき対象も様々見つかったかと思います。

 言ってみれば、人間は少し物足りない感覚をいつも抱いています。だからこそ物事に取り組んだり、他人と関わりを持ったりして自分自身を補える対象を求める性質、欲求と呼べるものが生まれています。今回はその性質を具体的にイメージするための内容です。

 

1.死は喪失の根源であり、生は補完の根源である

 人間が懸命に生きる理由は、いずれ死に至る運命だから。矛盾しているようにも感じますが、死に至ることのない運命ならば、人間は今を生きようともせず、全うすることもないでしょう。前回、直接的な生と死について、それらを想起させる間接的な生と死については少し触れた程度でした。直接的な生と死とは、いわば存在の有無。間接的な生と死は、今回のテーマである「喪失と補完」と言い換えることができます。

 大雑把に言ってしまうと、人間の行動は全て生と死に繋がっているということです。繋がっているという見方を持つと、簡明に見えるものがあると言った方が適切でしょうか。

 しかし、日常的に自らの行動が(直接的な)生と死に繋がっている意識を持つ人は少なく、喪失と補完の根源と言われてもなかなか想像できないかもしれません。そこで平易な例を挙げるなら、お腹が空くことも喪失の一種です。肉体的な喪失。そして、喪失したままでは(直接的な)死に至ってしまうので、食事を摂取します(補完)。さらに摂取した食事は、いずれ排泄されますから、再び喪失状態に陥り、食事の摂取という補完行為に至るという循環があります。

 これを私は「肉体的な生の循環(生きるために喪失と補完を繰り返すこと)」と呼んでいます。人間が生きるとは、等しく“循環”を意味していると言っても良いですね。大抵の場合、循環が滞ることは良くない状態とされ、個人の肉体だけではなく、他人との人間関係から組織的な事柄においても、常に循環を保つこと、できるならより良い循環を促せるように新しいものや栄養のあるものを取り入れていく判断が為されているかと思います。人間にとって「循環」は大きなテーマになり得るので、これもまた次回以降に綴ります。

 一方、前回の内容から、生と死には肉体的なものの他に精神的なものもあるとしました。そう、精神的なものも常に循環しているとの直観があります。

 ただし、精神における喪失と補完は複雑なため、肉体のようにすぐに把握できるものではありません。精神は視認できない上に補完の仕組みが「AならA’」のような関係性を想像しにくいため、肉体のように「お腹が空いたら(A)、食べ物を摂取する(A’)」とは限らないのです。例えば、悪口を言われて喪失状態に陥っても、悪口を言い返したら補完されるとも限りませんよね。

 おそらく精神が複雑になってしまう理由は、肉体のような視認性と自己完結性に乏しく、外的な要因からも喪失状態を構築させられてしまうからです。また、悪口を言われるにしても、喪失状態に陥る人もいれば、陥らない人もいますし、喪失の原因も一つとは限りません。精神の特性と個人差から一筋縄ではいかないのです。

 そのため、一生補完されない喪失を抱えたまま、生きなければならないことも考えられます。一応、人間は(喪失A)を抱えたとしても、(補完B’)や(補完C’)、(補完D’)などの代用できるものを見つけて(喪失A)を充足しようとはします。結果的に充足できることもあれば、より一層(喪失A)が際立ち、苦しむこともあります。例えるなら、大好きだった恋人にフラれ、寂しさから別の恋人を見つけて上手くいくこともあれば、逆に以前の恋人を思い出して深く落ち込むこともあるといったところでしょうか。

 ひとまず、ここでは間接的な生と死が私たちの行動の全てを指し、喪失と補完を担っていること、人間の生とは循環を意味し、肉体と精神の両方で喪失と補完が繰り返されていることを把握していただけたら十分です。

 

2.人間は喪失と補完を繰り返す

 人間の肉体と精神は、喪失と補完を繰り返しながら生を全うしています。その循環の仕方は共通した部分もあれば、個人差の大きい部分もあります。特に精神的な循環は同じということがあり得ないかもしれません。

 原則として、人間は自らが死に近づくような行為はしません。死に近づくような行為とは、肉体的な自傷であったり、存在価値を低下させる自己否定であったり、あるいは他人からそのような目に遭わされたり、前回の内容でも触れた通り、人間は死を避けて生きる習慣があります。しかし、一方で充足や満足、完全といった満たされている状態(死の忘却)になると、行動を起こさなくなることも事実であるため、満たされた状態からあえて自らの手で喪失状態に陥ることもあります。

 自らの手で喪失を創り出せば、補完のために行動を起こすことを知っているからです。いわゆるストイックと呼ばれる人は、自らの手で喪失を創り出す習慣があると言えます。「自分はまだまだ劣っている」と自己を否定することで、補完行為(自己を肯定する行動)を誘発するのです。

 ここで一つ押さえておきたい点があります。喪失と補完の関係から言えることは、あくまで人間が行動を起こす理由だけです。行動そのものは少なくとも自分自身にとってより良いものである可能性は高いけれど、社会や他人にとってより良いものであるとは限りません。自分自身により良いものが社会や他人にとって悪いものであることも考えられます。逆も然り。

 例えば、自らが喪失状態に陥っているとき、喪失を補完するために他人を利用することは人間社会でよく見受けられる光景です。喪失のきっかけとなった他人に対しては激しい嫉妬や憎悪の感情が芽生え、過激な批判に繋がる理由は、それだけ自分自身を死に近づけた(と認識している)からと言えます。死を避ける人間にとって、死に近づける対象には大きな罪の意識を持ち、否定することで自らの正当性を確保しなければ精神が安定しない(喪失が埋まらない)のです。

 また、個人が何を以て喪失とするか、何を以て補完とするか。この判断は個人に備わる“認識”によって異なります。認識の詳細は次回以降のテーマとしますが、認識とは「主観的な知覚情報への変換」を指しています。人間は主観の世界を生きているため、目の前にある全ての事実を客観的な事実のまま捉えられないのです。手に触れ、舌で感じ、目で見て、耳で聴き、そうやって身体の感覚器官を通じた情報は主観の世界を生きるしかありません。

「客観的な情報→認識(自己フィルター)→主観的な情報」という具合に、客観的な情報は即座に主観的な情報に変換されています。自己フィルターとは、個人の喪失と補完に基づく自動取捨選択機能のようなもの。先に述べたように、人間は死を避け、生を確認し続けていますから、等しく自分にとって都合の良い情報(生の確認)に変換しなければならないのです。おそらくこれがないと、不安定な生がより一層不安定になってしまうからだろうと思います。逆に言うと、この機能は不安定な人ほど強固です。

 人間は喪失から補完へと至る過程で現実の行動が顕現しています。これを理解できれば、私たちに見える現実の行動から個人の喪失も、喪失に対応する補完行為も、何を以て喪失と補完としているのかも推察可能になるはずです。特に感情を露見する場面では、必ずと言っていいほど個人にとって重要な意味が隠されています(感情の露見は、喪失を刺激された結果)。

 

3.生の循環があれば、死の循環もある

 この世を生きることになった以上、人間は生を望み、生の循環をより良くすることで頭が一杯のはずですが、必ずそうなるわけではありません。挫折、裏切り、失敗、事故、死別など喪失を大きくしてしまう経験から、喪失を埋めるよりも、喪失の放置によって楽になろうとすることがあります。

 生の循環は生きるために喪失と補完を繰り返すことですが、死の循環は死に向かうために喪失のみを繰り返していくことです。人間の喪失と補完は、収入と支出の関係のように満たされるほど余裕が生まれ、失うほど余裕がなくなります。しかも喪失は借金のように纏わりつき、放置していれば、借金の利息で首が回らなくなってしまいます。喪失は早くに返済するなり、大きくしないなりの対処を早急に施さなければ、膨れ上がった喪失に今まで以上の補完(収入)を要求されて手遅れになります。

 そして、往々にして喪失が大きくなりすぎてしまう人は補完行為(返済能力)に乏しいか、(他人から喪失を与えられる)環境的な要因か、心身の限界に達したとき、一切の返済を放棄し、利息で膨れ上がる借金を受け入れていくだけになってしまいます。これが「死の循環」です。喪失は行動の原動力とも言えるものですが、生と死のどちらに向いているかは状況次第と思います。また、人間の認識や思考を簡単に悪循環に陥らせるだけの力がある分、細心の注意を払わなければならないものであることは間違いありません。

 前回、意外と生を全うする力は脆いという話をしました。人間は辛うじて生を全うすることに意識を傾けているけれど、何をきっかけに死に傾くかはわからない不安定さがあります。それは大きな喪失はもとより、些細な喪失からも人生が狂うほどの悪循環が引き起こされる可能性があるからです。ストイックとは聞こえが良いかもしれませんが、自ら創り出した喪失をしっかり返済できる人でなければ、多くの場合で自滅してしまいます。

 私は「生を全うすること」を「平均台を渡るようなもの」とイメージしています。順風満帆な人生なら平均台を渡っている意識もなく、ただ真っ直ぐに堂々と歩めているかもしれませんが、紆余曲折ある人生では平均台から落ちそうになることも多く、こんなにも生きるとは不安定なものなのかと実感しているはずです。

 大きくなった喪失を補完するためには、個人の認識による補完行為の中でも良くも悪くも極端な選択をせざるを得なくなります。時に社会を震撼させる凄惨な事件は、あまりに大きくなった喪失によって引き起こされたと言えるかもしれません。逆に社会の中で大成功を収めるような人も大きな喪失を原動力にしていることもあるので、本当に良くも悪くも極端な結果に繋がりやすいと感じています。

 ただし、先に述べたように喪失も補完も個人の認識次第で如何様にも変化します。返済できない喪失という言い方は、少なくともその時点での個人の認識による循環から推定されるものであって、全く別の認識を持つことができたら返済できる可能性は否定されません。現在、抱えている喪失がどれほど大きくても認識を変えることができれば、その喪失によって生まれる寂しさや不安、悲しみを乗り越えることは可能ということです。

 最後に余談ですが、真面目で責任感のある人ほど精神的に病みやすいと語られる理由も、今回の説明から推察できるのではないかと思います。喪失が大きくなっても環境(他人)のせいにもせず、常に自分の責任と思い込むことで頑張ろうとするからですね。いつかその頑張りが報われて、大きな補完を手に入れることができるかもしれませんが、自己を否定する癖がついた人間は補完(一種の幸せ)にも鈍感になってしまうジレンマがあります。ストイックや減点法、自己否定による頑張りは諸刃の剣です。

 今回は間接的な生と死、喪失と補完とは何かを具体的にイメージできるように書いたつもりですが、もともと抽象的なテーマなだけに、どうにも掴みどころのない弊害が目立ってきている気もします。説明不足の部分は次回以降のテーマとして補完する予定なので、ひとまずタグ「哲学」に書きたいことを書き切った後、全体を推敲して少しでも読みやすくできたらと思います。

※この日記へのリンクは原則として自由に貼っていただいて構いませんが、悪意のある目的(スパムや誹謗中傷、評判を貶めるなど)での利用は禁じます。