【人間の考察】Part.2「人間の行動原理(生と死)」(3849文字)

※このシリーズの経緯と注意事項をまとめた【人間の考察】Part.1「創作的思考と哲学」に一度でも目を通していただけると助かります。

【人間の考察】と銘打つには恐れ多くもありますが、【執筆の考察】に準えたものということでご容赦ください。当然、私自身もひとりの人間として捉えられる部分には限界がありますから、常に自分の捉えられる面以上に多くの面があることや可能性に満ち溢れていることを忘れないように戒めています。

 そして、今回のテーマは「人間の行動原理(生と死)」です。根本的な問いに変換すれば、「なぜ、人間は行動するのか?」ということ。私たちの目には、他人の具体的な行動しか映ることがなく、行動に至る“内面の動き”は不明瞭に思えます。しかし、人間に共通する目的を理解できれば、人間の内面の動きは推察可能なのではないかと仮説を立ててみました。

 

1.全ての人間に共通する目的とは何か

 日頃から他人に興味を持っていると「なぜ、あの人はそういう言動に至ったのだろうか?」という問いを頻繁に立て、物思いに耽ることがあります。その度に「こういう理由があるのかもしれない」と具体的な出来事を想像したり、行動の理由を推察したりするのですが、数多の出来事と理由を消化できないままに不完全燃焼で終わることが少なくありません。時と場合と個人による千差万別の結論に埋もれてしまうのです。

 もちろん、そうした千差万別の結論は帰納的に結びつく大切なものですが、もっと人間の本質的な動機を発見できれば、おおよその行動は説明可能になるのではないかと考えました。そこで「人間は何を目的にしているのか?」と問いを立てます。この問いの答えはそれほど難しくありません。人間の目的は「より良く生きること」です。

 ただし、正しく言うなら、人間は生まれた瞬間から生きなければならない状況に立たされ、そこに人間の“建設性”が加わることによって「より良く生きたい」と願うようになったに過ぎません。私の解釈では、人間が常に心から生を望んでいるとは言い切れないとしています。

 例えば、生と死を自由に選択して一日を過ごすことができるとして、果たして人間は「生」を毎日選択し続けるでしょうか。ちなみに死を選んだとしても、痛みはなく、次の日に生を選び直すことも可能とします。現実では一度でも死を選ぶと生に戻ることはできませんが、二つを自由に何度でも繰り返せるなら、人生に疲れ、今日はもう誰とも関わりたくないと思う日、それこそ社会から一時的にでも姿を消し、人間関係から全てをリセットしたいと望むことは人生の中で一度や二度、あるいはそれ以上にあってもおかしくありません。

 つまり、死を選びたくなる衝動は否定されない。人間の目的は「より良く生きること」に収束するはずですが、だからと言って生の全てを肯定しているわけではないということ。

 私の見方における「生の意志」には脆いところがあります。人間は生と死を天秤にかけ、何とか生に傾いているだけではないか、と。人間が生きたいと願うことがさも当然のように語られることもありますが、それでは生きていながらも死に積極的に近づく行為(健康を害する選択)を今一つ説明できません。

 生存本能だけでは語り尽くせない複雑な事情が人間に存在します。ひとまず、ここでは「人間が生を望むこと」を原則として話を進めますが、次回以降にはそれら周辺の事柄も追究していくつもりです。

 

2.生きる上での最大の恐怖

 全ての人間が「より良く生きること」を目的にしているとき、最大の恐怖とは何でしょうか。より良く生きることを阻むもの、生の対極に位置する「死」ですね。そのため、多くの人間は意識・無意識を問わず、普段の生活からできる限り「死」と触れ合わないように注意を払っています。

 では、「死と触れ合わない」とは具体的にどういうことを指すのか。例えば、危ない橋を渡らないこと。万が一でも谷底に転落してしまうような橋を渡る人はかなり少ないでしょう。谷底に転落するとは、等しく肉体的な死を意味していますから。危ない橋には近づかない、渡るなんて以ての外です。このように直接的な死はもとより、死を予感させるもの(間接的な死)も含み、常に遠ざけ、避けようとする心理を指して「死と触れ合わない」としています。

 また、「死」とは肉体的な死のみと言い切れるでしょうか。私たちは他人から悪口を言われたとき、肉体的な外傷は一切ないにも拘わらず、痛みを伴うことがあります。痛みの極限は「死」ですから、最終的には肉体的な死が訪れるとしても、外傷なき痛みの存在を認めるなら、精神的な死と呼んでも差し支えない段階があるのではないかと推測できます。

 では、「精神的な死」とは何を指すのか。悪口を言われたことで追いやられるものは何か。これは個人の尊厳、自尊心(プライド)、存在価値など自己の存在を肯定し、認識するものであり、すなわち精神的な死とは自己否定の極限と考えます。おそらく人間は多かれ少なかれ自身の存在を肯定し、認識できなければ、急進的に肉体的な死を望むことを直観しています。だから生を渇望するとき、他人を求め、自己の肯定と認識を手伝ってもらおうとするのでしょう。

 さらに言えば、人間は生きている以上、痛みが怖い、死はもっと怖いけれど、それは自分自身の生(肉体と精神)を肯定しているから恐怖するのであって、もし自身の生を否定していたら、痛みや死は恐れるものではないかもしれませんし、一種の快楽に繋がる可能性も考えられます。繰り返すようですが、人間が生を望むことは原則であって、必ずそうであるとは言い切れないのです。

 ただし、一つ補足しておくと、上記の理屈では人間が肉体と精神の二つから成り立っていることを示唆していると言えなくもありませんが、この文脈においては、あくまで便宜上のものとして考えていただけたらと思います。私たちが日常的に使用する「精神、心、気持ち」といった相互了解された言葉、ツールとして認識してください。肉体は視認できても、精神は視認できないため、精神の存在証明は容易ではありませんから。もしかしたら、外傷なき痛みと捉えながらも、(未来を含む)脳科学、医学的な見地からは肉体的な変化が解明され、他人からの悪口に耐性がつくような薬が開発されるかもしれません(精神という曖昧な言葉を用いなくて済む時代)。

 私たちは「より良く生きること」を目的にしている中で、最大の恐怖対象は「死」であり、その「死」をより捉えやすくするために「肉体的な死」と「精神的な死」という二つに大別しました。加えて、それらは直接的なものに限らず、間接的なもの(予感、印象、想像など)も含まれています。

 

3.生と死の認識には差がある

「人間はいつか必ず死ぬ」という現実の中を生きなければならない人間にとって、生と死に対する認識には歴然とした差があります。なぜなら、絶対確実な死に対して、生はあまりにも不安定なものだからです。

 ある日突然、大病を患い、余命宣告を受けるかもしれませんし、ある日突然、交通事故に遭って命を落とすかもしれません。死は確実に訪れるにも拘わらず、いつ訪れるかはわからない。そうした直接的な死に留まらず、間接的な死も含めれば、人間はいつ何時であっても死に翻弄され続けている状態です。ある静かな夜、仕事も人間関係も順調なのに、得も知れぬ不安に苛まれた経験はありませんか。不安の根源は、この生と死に対する認識の差から生じていると考えています。

 平たく言えば、人間はいつも不安な状態なのです。しかし、不安な状態ではパフォーマンスが下がりますから、不安を隠したり、無視したり、紛らわせたり、忘れたりして平常心を装う習慣を構築しています。他人との関係においても、不安ばかり口にする人がいたら遠ざけてしまうでしょう(死を予感させるから)。

 別の見方をすると、もし人間に永遠の命があって痛みも感じない物質のような存在であったなら、不安に悩むこともなくなると思われます(生と死に差がないから)。しかし、物質になったら行動も何も起こさないかもしれません。そう、人間の行動原理は「生と死の認識に差があること」から始まっています。生と死の認識の差から不安が生まれ、不安を回避したいからこそ、動くのです。不安という概念は、私たちに悪い影響ばかりを与えるものと思われがちですが、実は不安もなければ、行動も起こらないという直観に繋がっています。

 もちろん、不安が悪い影響を与えることも事実であり、原因を挙げるなら、不安が大きくなるとは等しく死に近づくということであり、人間は死に近づき過ぎたとき、自己の存在を肯定するよりも否定した方が楽になってしまうからです。手に負えない不安の前に為す術がないと思い込み、「生の意志」から「死の意志」への転換が起こると推測。

 今回の内容は“人間の行動原理”を紐解くため、第一に人間の共通する目的を見定め、第二に目的を阻害する「死」の概念に触れ、第三に生と死の認識に差があることを整理しました。人間の行動は「生と死」から始まっていることがわかると、普段、私たちが見かける様々な人間の言動が少しは簡略化され、理解しやすくなるのではと期待しています。

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