【人間の考察】Part.11「人間関係の分布、言語の限界、簡易的なコミュニケーション」(5267文字)

※このシリーズの経緯と注意事項をまとめた【人間の考察】Part.1「創作的思考と哲学」に一度でも目を通していただけると助かります。

 今回は人間関係の摂理と言語的なコミュニケーションについて綴ります。自己理解と相互理解を基にした関係構築を目指しても、現実的な問題として本来的な自己と乖離した自己を演じたり、担ったりする場面があります。本来的ではない自己はストレス(喪失)に結び付きやすいため、あらかじめ人間関係の摂理を理解しておくことで幾何か緩和することができるのではないかと考えます。

 この意味において精神的な強さとは、本来的ではない自己を演じる忍耐力とも言えるかもしれません。少なくとも人間は自己愛性と社会性という二つの面があるとして、さらに具体的に言えば、お喋りな自分、仲間を引っ張る自分、他人に甘える自分と多様な面が伺えるでしょう。自己そのものが毎日少しずつ変化しているとすれば、そうした様々な自分もまた本来的な自己となり、最初は本意ではなかった自己のストレスがいつしか消え去っている期待も持てます。

 限界はありそうですが、自己の幅を広げることも悪くはないと認識できれば、柔軟性と共にストレス耐性は向上し、多くの人とより良い関係を築けるはずです。逆に言うと、自己愛性があまりに高まると、他人との関係が狭く深くなり、依存的な危険や他人への愛の無さが加速してしまうかもしれません。

 

1.人間関係(役割)の分布

 自分が話せば、相手は聞く。相手が話せば、自分は聞く。今から綴る内容はここに集約します。人間は自己愛的でありながらも社会的であるがゆえに、他人とのバランスを保とうとする無意識があります。社会性に優れる人ほど全体がより良く機能するために空気を読み、自らに与えられた役割を見つけ、全うしようとするでしょう。自分の能力や性格を客観視できているならなおのこと。

 しかし、人間は自己をはじめ、全体を客観視することが苦手なため、人間関係の分布を今一つ理解できていません。逆に言えば、だからこそ人間関係は自動的に分布するとも言えますね。私生活ではよく喋る人でも、職場で自分以上に喋る人がいるときは黙々と仕事に打ち込まざるを得なくなったりします。そうやって全体がある目的を無意識に共有しながら、各々の立ち居振る舞いが分布しているはずです。サッカーなら、試合に勝つという目的のためにDF~FWまで分布し、全員が特定の位置に集中することはありませんよね。

 ここで人間関係がどのように分布するかを押さえておきます。結論から言えば、主に“力(欲求の強さ)”による分布が多いかと思います。会社で言えば、多くの権限を握る代表が最も自己愛的に振る舞うことを許され、代表とは別の位置に次に力を持つ部下が続きます。原則として人間は自己愛的に振る舞う方がストレスを溜めずに済みますから、会社内で最もストレスを感じやすいのは末端か、中間管理職になることは必然です。もちろん、区切る枠組みによって分布は変わります。

 言い換えれば、「自己愛的に振る舞いたい」という欲求を誰しもが抱えているということ。その欲求の強い人が自らにとって心地の良い位置を強引に奪い取っているわけです。先に述べた「喋る行為」にしても、喋りたいという欲求の強さで勝ち負けが決まっています。特に日本人は空気を読む力に長けていますから、欲求の強さに敏感で譲ってしまうこともよくあるでしょう(これが繰り返された結果、全体が分布する)。これは次回以降に綴りますが、こうした欲求による分布は必ずしも組織の目的に最適化していないため、組織の成長や目的の達成を阻むものに“特定個人の自己愛”が挙げられることは少なくないのではないかと思います。

 また、どんな人間関係においても自動的に分布するということは、本来的な自己に近い自己を発揮できるかどうかは運によるところも大きかったり、浅ましさや卑しさを前面に押し出したりすることで居心地の良い場所を奪い取れるかどうかになります。性格の悪い人の方が職場で長生きできる理由はここにありますね。詰まるところ、本来的ではない自己を演じなくてはならない状況に立たされることは日常茶飯事なのです

 自然体とは、認識と同様に長い年月をかけて形成された最も居心地の良い自己の姿ですが、現実に自然体を発揮できる場面は限られています。これを理解できると、ある人間関係における不明瞭なストレスの正体が「他人の欲求(自己愛)と自分が競合していること」とわかるかもしれません。自己に執着してばかりの集団では最終的に他人に最も優しい人が切り捨てられるのも、その集団における人間関係の分布を把握できれば納得がいくことも多いと思われます。

 

2.言語の性質と限界

 どうしても人間は他人とコミュニケーションする際に言語を用いるため、前回までの内容から「言語との距離が近くなる弊害」を常に抱えています。言語との距離が近くなる弊害とは、言語に期待しすぎるということ(言語が喪失の補完する)。言語によってすべてを網羅し、余すことなく説明できるかのような錯覚を抱きやすい。さらに主観に囚われていると、自分の言っていることを理解できない他人を否定しやすくもなるでしょう。

 そして、人間関係の構築に言語的なコミュニケーションは不可欠ですから、言語の限界に気付いているかどうかは構築の可否に大きな影響を与えます。

 私にとって「言語」とはイメージよりも網羅できる情報量は劣りますが、共通性や論理性から客観的に誰が見ても明らかな情報として認識されやすい利点があるものとしています。イメージだけでは全く進まないコミュニケーションも、言語があるからこそ進むわけですね。しかし、頭に思い浮かべたイメージを言語化する能力だったり、微妙なニュアンスの違いを表現したり、精緻なコミュニケーションができる手段かと問われると「意外と難しい」と言わざるを得ません。

 作家ともなれば、素人よりも遥かに精緻なコミュニケーションができるだろうと思うかもしれませんが、言語的なコミュニケーションは話し手の能力が秀でているだけでは足りず、聞き手の理解力や解釈の正しさにも依存しています。もっと言えば、言語に置き換えられない部分の理解も必須です。そのため、正確なコミュニケーションを行うには、それらの条件を満たし、できることなら微妙なニュアンスも自然と共有できるくらいの信頼関係が前提となっているのではないかと思います

 例えば、「運動と勉強のどちらが大切か?」という議論があったとして、「運動が大切」と述べたとしても「勉強を全くやらなくても良い」とまで言っているかどうかはさらに踏み込んで訊かないとわかりません。ところが「運動が大切」という言葉からは「勉強よりも運動が大切である」という解釈だけではなく、「勉強は役に立たない」とまで解釈できる幅があります。

 実際にそうした微妙な違いを明らかにするには、話し手の表情や口調、立場など言葉以外の情報から推測しなければなりません。特に優先順位や程度の問題に過ぎないことを言語で説明することは、煩雑になってしまう場面が多い印象です。言語化とは「1+1=2」のように明瞭に置き換えようとする意図がありますから、優先順位や程度の問題のようにグラデーションを表現することは得意ではないのです。

 また、「物は言いよう」という言葉もあるように、物事を捉え、言語化する際には物事を客観的に正しく表現するよりも、自己都合によって歪曲された言葉が並ぶことは喪失と補完の観点からも非常に多くなります。個人の印象にしても、言語化した時点で客観的な個人ではなく、主観的な解釈に基づく個人として独り歩きするでしょう。前回までの内容でも述べた通り、むやみに言語化することによって本質が見えなくなったり、個人の印象をミスリードしたりすることは建設的とは言えません。

 つまり、人間は言語的なコミュニケーションに頼らざるを得ない状況ながらも、実際にコミュニケーションと呼べるほど意思の疎通が十分に図れているとは思えないということです。SNSが浸透したことで文字ベースのコミュニケーションが格段に増え、主観に囚われた人間は自分の言っていることが理解されて当然とまで思うかもしれませんが、実際に自分の言っていることを十分に理解できる人は圧倒的に少数であると思います。それは学生時代の「現代文」のテストで全員が満点を獲っていたわけではないことも一つの証拠ですね。

 

3.簡易的なコミュニケーションと信頼

 言語の限界を踏まえると、「では、言語的なコミュニケーションの意義とは何か?」という問いを生み出します。抽象的で複雑な事柄ほど言語的なコミュニケーションの難易度は飛躍的に上昇しますから、そこで無理に言語化を試みても先に述べたように本質が曇るだけです。

 しかし、人間の特に精神的な生にとって他人とのコミュニケーションは必須とまで考えられます。そこで私は簡易的なコミュニケーション」に徹することを推奨します。端的に言えば、言語の限界が生じにくい他愛もない話をすること。そもそも言語的なコミュニケーションに無理があるという前提に立ってみるのです。これは言語的なコミュニケーションへの諦めではなく、信頼を積み重ねることによって正しく機能させることを目的にしています。

 また、他人との言語的なコミュニケーションに期待しすぎない方針は「精神構造の自立」を促し、孤独耐性を高めることにも繋がります。人間は自らの自己愛性に寄りかかっている時間が不可欠と考えていますから、孤独耐性を高めることは等しく自立した精神構造の中でのストレス発散になります。自分の気持ちを理解してくれる人を求めたり、主張を通したりすることは決して悪いことばかりではありませんが、本当の意味で自分の気持ちを理解できるのは自分自身しかいないと割り切ってしまうくらいがちょうど良いのではと思います。あくまで他人はそこに近づけるだけで、自分で自分を理解することに努めた方が建設的です。

 自分にとって当たり前な事柄を客観視することは簡単ではないものの、自分にとっての当たり前に気付かない分だけ、他人の気持ちを無視する恐れがあることは理解するべきと思います。歳を重ねるほど当たり前が増えることまで加味すると、早い段階から自分と他人の違いを明らかにしても良いでしょう。

 あるいは言語の限界を把握した上で、あえて言語化を試みていることを念頭に置いても良いかもしれません。こうした内容もそうですが、曲がりなりにも言語の形にできれば、読み手を刺激し、思考が展開され、新たな結論を導ける期待が持てます。言語とは万能ではなく、不十分なもの。誤解が生まれるのも仕方がない、説明不足も仕方がないことを押さえておけば、言語に多くの期待を寄せたり、言語を絶対視せずに済むでしょう。失敗を程よく加味すると言い換えても良いですね。

 どうしても人間は喪失が絡むと、ついつい目の前にあるものに囚われがちです。特に人間と密接に関わる言語の明瞭さは一種の罠とも言えます。おそらくどんな場面においても言語的に表現されるものよりも“真意”の方が大切であることがわかれば、言語に振り回されることは減り、真意を知る方に意識を割いていくはず。

 その真意を知るにしても、信頼関係を築けるかどうかは大きなところです。簡易的なコミュニケーションを繰り返し、心の緊張を緩和していくことで言語の限界、不備を咎めるのではなく、寛大に受け止めることを示していきます。いきなり高度なコミュニケーションを求めない。

 

終わりに

 人間関係の分布から言語の限界と続く流れに特別な意図はありません。今回の内容は大きなテーマとしてまとめる先が思い浮かばず、それでも綴っておきたい内容でした。特に人間関係の分布は、また新たな考え方に発展できる可能性を秘めている気がします。もっと詳細に人間の分布を明らかにできれば、より良い集団にするための性格的な条件など判明しそうです。

 少なくとも普段の人間関係くらいは本来的な自己に近い自己で、全体が分布するように試みられたらとは思っています。そのためにも他人を理解することは一生勉強です。相手が何を考え、何を感じ、どんな反応を示すのか。そうやって相手を知りながら、心の緊張部分を突き止め、緩和できるように振る舞うことが個人的な理想です。

 昨今、SNSが急速に浸透した中で、言語的なコミュニケーションの理解が追い付いていないと感じることが多々ありました。そもそも実際に会って話をしていても噛み合わないことがあるのだから、文字だけではわからないところをもっと考えておかなければならないのではないか、と。

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