【人間の考察】Part.10「感情と怒りの本質」(4176文字)

※このシリーズの経緯と注意事項をまとめた【人間の考察】Part.1「創作的思考と哲学」に一度でも目を通していただけると助かります。

 今回は人間の感情の一つである「怒り」について綴ります。怒りの感情の取り扱いを誤ると、自分の都合だけで他人を簡単に追い詰めてしまいます。加えて、喪失と補完の関係から怒りの本質が見えないときには、怒りの感情を抱く正当な範囲を超えて、他人を否定し続ける状態、すなわち喪失の拡大に歯止めをかけられなくなります。

 人間が怒りの感情を抱くことは至って自然なことですが、怒りの性質上、取り扱いが非常に難しいため、生きる上では早くに向き合い、対応策を考えるべきなのではないかと思っています。その対応策として、自らの怒りの本質を見極めること。怒りの本質は自らの精神的な生が色濃く投影されていますから、自分自身を理解するうえでも大きな助けになります。

 

1.感情とは何か

 感情とは、端的に言えば「心の印象(イメージ)」であり、内外の刺激に対する反作用です。人間の行動原理の根本的な部分は「生と死(喪失と補完)」として、その上に感情(自己愛性)と思考(社会性)が並列してあると考えています。ちなみにさらに上にあるものが行動であり、感情に基づく行動、思考に基づく行動、感情と思考が絡み合った行動と分けていますが、行動に関しては例外的に感情や思考よりも先立つ無意識的な行動もあるとしています。

 実際に様々な感情が言語化されているものの、本来はそこはかとなく感じる程度のもの。そうとも言えるし、そうとも言えない。単一の感情ならまだしも、一定に留まることもない複雑な感情の言語化には無理があります。

 人間にとっての感情は人間足らしめる大切なものですが、感情のような曖昧で矛盾を多く含むものには嫌悪しやすいこともまた事実です。人間は矛盾を抱えながらも、矛盾を嫌う。なぜ、矛盾を嫌うのかというと、端的に言えば「思考の対象として扱いにくいから」と考えています。人間の思考は「1+1=2」のように明瞭、且つ思考力の範囲内で片づけられるものは歓迎しても、複雑に絡み合った問題や要素が不明瞭で捉えにくいものには腰が重くなります。

 逆に言うと、人間が主観的に捉えようとする衝動には、自身の思考力の範囲内に収めたい意図が隠されています。客観的な捉え方から離れたり、都合の良いように決めつけたり、喪失も絡めば、無理やりにでも事実を歪曲してしまうでしょう。ちなみに客観的な事物をそのままの形で考えることを哲学では「エポケー」と言うそうです。

 また、個人の感情とは自己愛性の象徴的なものでもあるため、曖昧さや矛盾を差し引いても忌避しやすいことは変わりません。前回の内容から他人に自己が流入するような関係性でないとき、あるいは愛(他人を無条件で肯定)を持たないとき、受け入れがたい対象として認識します。他人からの影響を受ける人間にとって、感情の情報は自己を惑わせ、揺らぎ、等しくストレス(自己愛性の競合)として感じやすいのです。

 そして、人間関係の問題を複雑化している原因は「感情」と言っても過言ではありません。本来ならば、1+1=2のように「1」は「1」以外の要素を持たないと定義できなければ、「2」を導けませんから。加えて、問題解決に用いられるものは「言語」なので、感情を言語化(思考の領域に展開)して論理を紡ぐ他ありませんが、感情の言語化に限界がある以上、解決策が本意ではないものに落ち着いてしまうことも半ば必然なのです。

 だからこそ、人間関係の問題は根深く、寛解までに多大な時間を要します。自分自身ですら気づかぬ間に対象への不満や怒りが蓄積し、いざ許しを求められても素直に頷くことはできなくなります。要素ごとに分解し、向き合い、納得しながら先に進む必要があるくらいなら、一切の関係を絶ち、新たな関係に各々が歩みを進めた方が建設的との判断がよくなされますね。

 感情とは何か。詰まるところ、本当の意味での答えはわかりませんが、私たちが感情と呼んでいるものや個々の感情を言語化している部分に焦点を当てれば、人間にとって意味のある解釈を導けるだろうと思います。特に感情と呼んでいるものの中でも、重要な意味を持つものとして今回は「怒り」を取り上げています。

 

2.怒りの本質

 怒りとは、感情の中で最も自分自身を守ることに適した諸刃の剣であり、依存しやすいものと考えています。怒りを引き出すことは癖になりやすい。

 怒りに囚われると、他人や物事と自分自身を対立して捉えるようになるかと思います。なぜ、対立して捉えるようになるのかというと、対立した方が真っ向から否定できるからです(否定の強度が上がる)。それだけ精神的な生が脅かされ、反作用として引き出される怒りの感情を鎮めるには大きな否定を必要としており、等しく喪失の大きい人ほどすぐに対立して捉えます。

 ここで考えておきたいことは、意味のある怒りかどうかです。怒りには“正しい怒り”と“間違った怒り”があります。自身が苛立ち、大きな怒りを溜め込んでいるときほど、周囲の些細な言動に敏感になりますよね。本来、怒りを覚え始めた根本的な問題(怒りの本質)に向き合うべきところを、人間は自分を棚に上げ、全く関係のない人間や物事に怒りの矛先を向けることがあります。平たく言えば、八つ当たりですね。

 例えば、恋人にフラれて落ち込んだ後、注文していた商品の配送が遅延したことにいつもの何倍も腹を立てること。この場合、怒りを大きくしているもの(怒りの本質)は恋人にフラれた事実であり、きっと怒りを抱くべき対象は自分自身(あるいは恋人)であって配送業者ではありません。

 個人にとって怒りの感情は重要な意味を持ち、感情として浮かぶことは人間にとって不可欠と感じながらも、間違った怒りは多くの人間を傷つけ、怒りの本質を曇らせます。言い換えれば、自分を守るために自分に嘘をつき、怒りを複雑化して正当性を高めています。怒りの本質が曇ると、なぜ自分自身がこんなにも苛立ち、怒りに振り回されているのかすらわからなくなるでしょう。これでは自身を客観視することも困難を極め、取り返しのつかない事態に陥らなければ、あるいはそうなったとしても気づかぬままかもしれません。

 では、正しい怒りとは何か。それは第一に自分自身に関わる問題か(適格性への問い)、第二に問題に対して抱く怒りの大きさとして適切か(適切さへの問い)、第三に怒りの本質に近いものか(本質への問い)の三つを押さえたものとしています。これらを押さえておけば、次に述べる自己理解へのきっかけとして機能しやすくなります。

 世の中には怒りを抱いてもおかしくない出来事が山ほどありますし、実際に怒りを抱く気持ちも共感することもよくわかりますが、だからと言ってあらゆるものに怒りを抱き、自分を見失うことは得策ではないと考えます。ましてや自分の目から見える全体の一部から大きな怒りに囚われることは「過剰な正当防衛」にもなりかねません。その怒りに囚われることはあなたにとって本当に必要なものですか、怒りが大き過ぎませんか、そこに怒りの本質はありますか。

 怒りの根源もまた喪失ですから、怒りの正体を追い詰めていくと自分自身の喪失が見えてくるかと思います。

 

3.怒りの大部分は言動に結ぶより、自己理解を第一に

 正しい怒りであっても怒りに染まった言動は喪失を拡大させますから、基本的に怒りに囚われないに越したことはありません。怒りの感情は自己の都合を他人に押し付け、歪めようとする非常に強い意思がありながらも、実際に自分ではない他人をコントロールすることはできません。できない分だけ、再び大きな怒りを生み出すという悪循環があります。

 一言で言えば、怒ったところで何も解決しないということ。であるなら、怒りの大部分は自己理解のきっかけとして捉えた方が建設的と思います。

 怒りは極端な結果を導きやすいため、取り扱いが難しいものの、逆に言えば、自分自身を理解するものとしては最適なのです。人間がいくら自分自身の変化に疎くとも、怒りによって目の前の人が悲しんだり、周囲が心配したり、視認できる形に変化すれば、気付ける人は多くなるはずです。それに人間は得てして良いことよりも悪いことの方が印象に残りますからね。

 怒りの感情を抱くとき、「なぜ、私は怒るのか?」と自問自答するだけで自身の認識にわかりやすく迫ることができます。怒りから自らの認識に迫れば、きっと怒りの感情をコントロールすることも夢ではありません。怒りの感情をコントロールできれば、思わぬ形で信頼が破綻したり、他人に喪失を与えることがなくなり、人間関係はより良く維持されます。人間関係がより良く維持されれば、相互理解が進み、人生の豊かさは向上するでしょう。

 怒りを露わにしやすい人は、他人への想像力を欠き、二度と戻らない信頼に気付いていません。繰り返しますが、怒りの感情を抱くことは自然です。自然ですが、怒りの感情に基づく行動には理性を働かせなくてはならないというのが結論です。

 

終わりに

 今回は怒りをテーマに綴りましたが、三つのテーマに分けるほどではなかったかもしれません。書きたい気持ちが先行して、まだ十分に練られてなかったり、内容に乏しい部分を自覚しています。ただ、かつての日課「一日一文」でメモとして綴っていた内容よりは充実したものにはなっているので、ここからまた改めて書き直せればいいかなと思っています。

 普段から自分自身や他人の感情を観測することが癖になっている私にとって、最も厄介な感情が「怒り」でした。どうしたら「怒り」の感情を鎮めることができるのか。緊張を解すことができるのか。他人の心を観測するだけではなく、そっと抱きかかえて癒せるようになれたらと思うことも増えています。

 しかし、怒りの感情にはまた別の意味を与えることもできそうなので、今回の内容のように怒りに囚われないことが建設的とも言い切れない部分があるかもしれません。

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