2018年の自分に決着をつける【作品の考え方編】Part.3

 2018年は執筆から完全に離れていた時期ではありましたが、作品についてはずっと頭の中であれこれ考えていました。

 日常の様々な出来事に刺激を受けたせいなのか、それとも単純に時間が経過しただけなのかはわかりませんが、頭の中がいつの間にか整理されることがあります。

 それをきっかけにというわけではありませんが、作品を忘れないために意識していたことや考えていたことをここにまとめておきます。

 

1.作品の価値に囚われてはならない

 作品を褒められれば嬉しく思いますし、それが出版化や映像化、グッズ化など個人の発信した形とは別の形に展開されていくと、さも自分の作品には価値があるかのような錯覚を持ってしまうかもしれません。

 しかし、価値とは非常に曖昧なものです。実際のところ、よくわかりません。どんな成功も自分の意図しないところからの広がりが大きすぎて、運が良かったの一言で片づける方がしっくりきます。

 そんなよくわからないものに振り回されそうになるのなら、作品をより良くしようと常に考えていた方が建設的です。他人から見た評価というものは何をきっかけに変容するかわかりませんが、自分から見た作品の評価は変わらず持ち続けたい。積み重ねた以上に表現力が豊かになることはありませんし、作品の質が向上することもありませんから。

 そういった意味であえて作品の価値は何なのか?と問い直すと、現に作品のために奔走する作者と応援してくれる読者の存在そのものだと考えます。

 

2.魔法を魔法と呼ぶ必然性

 休止前に取り組んでいた2017年の長編作品に登場する「魔法」の設定について、改めて問い直した日記です。著しく下がった執筆のやる気が休止している間にほんの少し回復していました。

 私の作品ジャンルは一応「現代ファンタジー」を意識していて、ファンタジーの要素「魔法」が作中に登場しますが、魔法と呼ぶ必然性はありませんでした。

 超常的な力をひとまず「魔法」と仮定する一定の普遍性はあると思いますが、実際のところ魔法ではなく、超能力でも何でも良いということになっています。しかし、そこを魔法と呼んでしまう弊害を感じ始めました。

 ひとたび魔法と呼んだからには、その魔法を紐解く必要があります。そこが作品のおもしろさとして考えていた部分でしたが、魔法という普遍性ある言葉は重すぎて、現代ファンタジーで表現したい現代、つまり「日常」が耐え切れるか不安に思いました。

 作品の日常そのものが魔法の解明に注がれることを嫌って、だったら魔法とは呼ばずにもっと限定的で独自の表現にした方が必然性(説得力)も高まるし、一石二鳥だという結論に至ります。

 そして、この考えは、2019年現在執筆中の作品に登場する「感情の鼓動(情動)」という形で引き継がれることになりました。

 

3.物語に笑いがある意味

 小説の場合、文章を理解しなければ先に進めませんが、この理解するという作業は結構大変なことです。

 まず目で視てどんな文字が書かれているか識別し、頭の中に時系列で情報を並べ、知っている単語の意味を記憶から呼び起こし、照らし合わせます。

 これが無意識に行われていますが、何も考えずに続けていると、集中力を低下させ、物語に没入することができなくなってしまいます。

 

 今では物語に「笑い(冗談)」があるということは当たり前のように行われていますが、この発想の原点には興味深いものがあります。

 本来、物語の本筋を進行するためには必ずしも「笑い」は必要ありません。学校の授業で言うところの笑いは、先生の冗談のようなものですから、授業そのものには関係ありません。

 しかし、そんな笑いは話を聴く側の緊張を緩和させ、集中力の回復に貢献しています。

 本当に必要なものだけを積み重ねることが「物語を楽しむ」という結果を得られるわけではない、と「笑い」の存在は暗に示しているように感じます。

 

 この発想の原点が仮に読者への気遣いであれば、読者に楽しんでもらうというサービス精神には限界がないのだと考えさせられます。難しい話が続いてしまっても、当然とは思わず、どこかできちんとバランスをとる着眼点にも繋がります。

 

 

 以上です。さらに【2018年作品の考え方編Part.4】続きます。

 また改めて見直してみて、誤字脱字誤用などあれば書き直そうと思います。