2018年の自分に決着をつける【自己哲学編】Part.2

 前回に引き続き、2018年の日記を整理します。

 

4.無意識の知

 本質的には「やらないことを決める」と同じ話です。

「夢を実現したいのなら周囲に語れ」という話をよく聞きます。これはどういう理由があるのか考えてみると、2つの答えがあるように思いました。

 

 1つは精神論として、自分自身を追い詰める意味です。周りにやると宣言したのだからやらなければいけない。確かに自分自身を律する効果はありますよね。

 ただし、これは精神に負荷をかけて努力に結びつける行為なので、追い詰めすぎて努力すらできなくなるということも考えられます。精神への負荷、つまりプレッシャーの中でどれだけ力を発揮できるのかというバランスは、やはり人によって様々だと思います。私は緊張しやすく、緊張によるパフォーマンスの低下を感じた経験は過去に何度もありました。

 

 もう1つは、無意識の方向性を決定することです。こちらが本題です。

 例えば、私の場合で言うと、小説を書こうとする前と後を比べると、語彙を知ろうとする意識の差は顕著でした。小説を書いていなかったら、おおよそ知ることもなく人生終えていただろうという語彙はたくさんあります。

 読者に楽しんで欲しいと思う気持ちの有無もそうですし、何を目指すかというところから自然と蓄積する知というのは時間をかけた分だけ大きな差となって表れてくるように思います。

 これを利用しない手はないですよね、という話でした。

 

5.執筆のやる気を紐解く

 一体どういうときに執筆のやる気は失われるのか。これを紐解いた結果、3つに分けられることがわかりました。

【実力と向き合えなくなったとき】

 小説を書いていると、常々と言っても過言ではないほど、自分自身の表現力のなさに嫌気がさします。頭の中ではPS4くらいの解像度なのに、文章にしてみたらファミコン並みの解像度に落ち着くなんてことが珍しくありません。

 私の場合、書き始めた頃はそれほどありませんでしたが、前回よりも良い作品を―と意識し始めてからは、これを理由に作品との距離が不安定になりましたね。

【作品と向き合えなくなったとき】

 作品を愛する気持ちが失われたとき、物語や登場人物たち、延いては作品そのものと向き合えなくなります。

 当然、作者は作品をおもしろいと思って書いています。しかし、作品に対するやる気や情熱は常に高いレベルで安定しているわけではありません。

 執筆の作業は肉体的にも決して楽ではありませんし、思考への負荷も大きなものです。考え続けていれば、それに比例してより良いアイディアを思いつくかというと、そうとも言い切れません。そういった中で気持ちを維持することは、おそらくどんなプロでも、アマチュアでも、初めての経験で難しいものだと思います。

 また作品と向き合う気持ちは作者だけの問題かというとそんなこともなく、読者からの応援や支持によって支えられている面も多分にあると思われます。

 作品から離れそうな気持を読者が繋ぎ止めるということもあるでしょうし、読んでおもしろかった気持ちを作者に届けるという行為にどれほど大きな価値があるのか。私自身、プロではありませんが、容易に想像することができます。読者の存在、応援の力は偉大です。

【健康でなくなったとき】

 プロであれば、ほぼ1日中。アマチュアであれば、執筆している間はずっと座りっぱなしでしょう。運動不足、血流の悪化、腰への負担、眼精疲労……少し考えただけで思い浮かぶものがたくさんありますね。

 そういった環境の中で、健康を維持することは本人の務めではありますが、読者のためと思って作品と向き合う時間を増やせば増やすほど、健康から遠のくジレンマがどうしても考えられます。

 

6.お金によって手に入るものと、そうではないもの

 執筆のやる気に関わることにお金への囚われが存在します。ついついお金を欲しくなってしまう心理は誰にだってあるものですが、その欲求を実現するために執筆の努力に結び付けられないのであれば、足を引っ張るだけの存在になりかねません。

 お金があれば手に入るものと、お金では手に入らないものが世の中にはあります。

 

 現時点で生活に困窮している場合を除き、お金によって得られる幸せには限界を感じませんか?

 私からすると、お金によって小説執筆の技術は手に入りませんし、感動も手に入りません。私が価値を感じるものの多くはお金によって手に入るものではありませんでした。私が人生に最も価値を置く瞬間は【作品の感動】なのですが、それは決して自身の作品による感動に限らず、他作品から得られたものでも全く問題がありません。

 世の中の誰にも解けなかった数学の問題を解いた人物と、その実績に感動するように、私は過去の作品から得られた感動を超越する作品に出会いたいし、できることなら自身の手で生み出したいのです。

 決してお金の価値を否定しているわけではなくて、人生の幸せをお金とそうではないものに分け、本当に自分にとっての幸せにはお金がどのくらい必要なのかと考えてみないと、お金にどのくらいの価値があるのかわかりません。

 時間はあるに越したことはありませんが、お金は必要以上あってもそれほど意味を持ちませんし、幸せを見つけられないうちのお金への欲は際限がありません。お金を持ちたいと漫然と願うほど、今の自分に価値のあるものが見つかっていないのかと不安にさえなります。

 

7.多様な生き方と単一な私

 昨今、youtuberに代表されるようなネットを駆使し、個人でお金を稼ぐ人たちが増えました。今までただの遊びに過ぎなかったゲームの分野でも企業からのスポンサードを受けて、プロとして活動をしている人もいます。私の知らない分野でも今までただの個人に過ぎなかった人にスポットライトが当たる現象は起こっていることでしょう。

 そういった今までにはない生き方をする人たちを見て、私は私が1人の人間である事実に気付かされます。

 

 生き方と語ると大きくなってしまいますが、考え方の相違は誰もが共通して認識していることだと思います。

 その中で新たな価値観を認めるという文脈には【自分→社会】というベクトルを感じますが、実際のところ、多様な社会とは単一色(独自の価値観)を持った人の集合体です。

 つまり、自分自身もまた誰かに認められたいと願う【自分←社会】も同時に存在しているはずです。

 

 創作の世界では新たな作品が毎日のように生み出されています。その1つ1つには個性があって、新たな価値観が含まれているかもしれません。

 多様性という意味では同様に、その価値観をおもしろいと思って受け入れる寛容な気持ちがなければ、自身の作品を多くの人に受け入れてもらうことは難しいような気もします。もちろん、好き嫌いや技術に基づくこだわりを持つことも重要ですが、それは自身の作品に落とし込むことであって他作品を否定する材料ではありませんからね。

 

 

 

 以上です。自己哲学編はここで終わりですが、次は【2018年作品の考え方編Part.3】に続きます。