2017年の自分に決着をつける【長編小説編】Part.2

 前回から引き続き、2017年の自分に決着をつけようと思います。

 

4.失敗の価値

 失敗は恥をかくこともあるし、貶されることもあるし、積極的にしたいとは思えないものですよね。

 

 小説を書き始めたばかりの頃、自分の作品を誰かに見せるということが恥ずかしかった記憶があります。投稿先を出版社にした理由の一端でもありました。今でもそれは抜けきったとは言えないのですが、なぜ恥ずかしいと思うのか?と考えたら、作品への姿勢が中途半端だったからです。

 もともと目立つことがあまり好きではないという性格的な面もありましたし、創作活動特有の裸をさらけ出すような感覚も作用したと思います。

 

 失敗=恥をかくことと捉えると、作品を執筆したら誰かに評価してもらった方が良いという風潮があります。

 確かに「評価をもらう」という選択肢はあった方が良いのですが、批判の取り扱い方というのはプロであっても明確な解を持っていないと思われます。作品に対する理解度が一様には語れない様々な視点からの意見は、玉石混交というのが本音ではないかと考えています。

 言葉遣いも誹謗中傷に近い感情的なものであったりすれば、受け入れる側としても素直にはいかなくなるでしょう。

 なので、私自身は第三者からの意見には慎重な見方をしています。何より重要なのは創作を楽しむことだと思うので、執筆のやる気に最も結び付けられる形を見つけられれば良いというのが率直な意見です。

 

 失敗=分析する機会と捉えると、作品を完成させないという結果は避けなくてはなりません。

 どういう形であれ、作品を完成させて最初から最後まで分析する機会がないと現時点での実力がわかりません。作品を誰かに評価してもらうかは慎重に考えるとしても、自分では必ず評価できるようにした方が良いと思います。

 私はいつからか失敗を恐れ、事前準備に時間を費やすことが増えていました。正当化をすれば、失敗によって得られるヒント以前に課題は山積みなのだから、得てして失敗を求めても仕方がないというもの。

 しかし、事前に全ての課題を消し去ることはできません。これはプロであったとしてもです。

 なぜなら小説は定量的ではなく、表現の限界もなく、意思と時間のどちらかによってしか終わらないからです。仮に技術に乏しくても、作品を完成させることができれば、良い面に価値を見出す人も現れてくれるかもしれません。

 完璧でないことはわかっているけれども、作品を完成させなければ何も生まれないというのが暗黙の了解としてあるように思います。

 

 これはまさにメンタルですが、私は失敗の価値に気付くことができていませんでした。いや、気付いていたけれど、意識して避けていたのだと思います。

 

5.作品の世界に没入する大変さ

 小説の作業は物理的に文字を連ねているだけではなくて、少なくとも私の場合、物語の世界や登場人物に感情移入しながら執筆しています。

 作家が毎日のように執筆するのは、単純に作業量が多いという事情だけではなくて、作品そのものを忘れてしまうからというのもかなり大きな理由だと思っています。いや、私だけかもしれませんが。

 

 例えば、登場人物の感情が激しく揺れ動く場面では、その人物の気持ちを理解して文章に起こさなくては説得力を欠いてしまいます。

 論理的な理解だけでなく、感情に寄り添うことができるかどうか。日常生活で誰かに深刻な相談をされたときに、相手の気持ちに立って共感と一緒に言葉を紡げる人と、自分の考えだけをつらつらと述べるだけでは印象も大きく違うでしょう。

 まさにそのようなことが執筆にはよくあります。執筆から離れてしまうと、記憶の忘却か、理解の変化か、人物の振る舞いが以前と比べて変化することがあります。

 それに読者は違和感を抱くでしょうし、作家自身も「これで良かったのか?」といつまでも納得できず、本来の人物像が彼方に消え去るという恐ろしい現象が起こりかねません。

 

 何年離れようが絶対に忘れないほど人物像をはっきりと記憶(理解)するか、思い出せるような術を身につけておくか。

 

 いずれにせよ、こういった思考を切り替える(没入する)経験は、驚きと同時に大変なことだなと身に染みています。

 

6.風呂敷を広げ過ぎない引き算

 以前までは風呂敷という名の設定や展開をこれでもかと広げていました。とにかくやりたいことをただ詰め込んだだけという作品でした。

 しかし、それは表現の曖昧さに起因した不必要な点であることがわかりました。

 なんとなく白熱する場面、なんとなく綺麗な場面、なんとなく感動する場面という場面ありきの考え、継ぎ接ぎしたような物語で一貫性に乏しかったのです。

 

 頭の中ではこんな格好いい場面を―と妄想するものの、今の展開の、登場人物の気持ちの流れで本当にそれに意味はあるのか?と自問することが増えました。

 おそらく無意識に場面での引きに依存していたんです。おもしろい作品は派手な展開なくともおもしろい。

 

 結果として、登場人物の心情表現に重きを置くようになりました。冷静に分析すれば、展開を納得させる人物表現という課題をクリアできていなかったから、風呂敷を畳めなくなったのです。

 

7.ネット投稿から学んだこと

 ネット投稿は気軽に投稿できるものですが、やはり良くも悪くも読者の存在をどのように捉えるかによると思います。

 より多くの人に読んで欲しいと思えば、毎週のように相応のページ数を投稿しなくてはなりませんし、時にネット上の流行にも影響を受けることになるかもしれません。読者を全く意識しないのなら、自分のペースで好きなジャンルを執筆し投稿することはできますが、ほとんど誰にも読んでもらえないという結果と今度は向き合うことになります。

 であるのなら、出版社投稿とそれほど変わらなくなってしまうのでは?というのが私の結論です。

 

 ただし、当時の私が焦っていただけで、投稿ペースに関しても事前に作品を完成させておけば問題ありませんし、実際にはネット投稿を上手く活用し、執筆のやる気に結びつける方も多くいらっしゃいます。

 あとは投稿先のサイトごとに流行や作品の傾向(ジャンルや一次、二次など)に偏りがあるので、プロの作家先生や編集者からのレスポンスをもらえたりする出版社投稿の方がある意味で幅広く作品を受け入れていると言えるかもしれません。とにかく作品を誰かに読んでもらうためなら、ネットが手っ取り早い。これは間違いありません。

 またネット投稿の場合、イラストを描く方との距離が近いこともあって、人によってはキャラ絵を描いてもらえたり、自身の作品から良い意味で思わぬ展開が待っていたりすることもあるようです。読者からの応援メッセージなどの話もよく聞きますし、アマチュアとは言え、ファンと呼べる人たちがいることも珍しくないそうです。

 

「ネットなのか、出版社なのか」と、二者択一で考える必要は全くありませんが、漠然と自分自身に向いている向いていないという感触はある気がします。それとサイト利用規約や出版社の投稿規定によって両立が一時的か、永続的か不可能な場合があります。すでに公表されたものの投稿は受け付けないとか、投稿している間は公表を控えるとか、そういうものがあります。

 一応、両方経験した私は、このブログに投稿するという第三の選択肢を選ぶことにしました。

 個人ブログへの投稿は、普通のネット投稿と比べて全く誰からも読まれない可能性が非常に高いのですが、今の実力からすると手放しで誰かに読まれることを喜びとしていないんですよね。

 

 

 以上です。これにて2017年の雑多な日記を全てまとめることができました。

【2017年の自分に決着をつける短編小説編】

【2017年の自分に決着をつける長編小説Part.1】

  2018年の日記の整理は【2018年の自分に決着をつける自己哲学編Part.1】からまとめてあります。