お金とは

 お金は生活するためにも重要なものですが、生活以上に欲しがる人もいることでしょう。あればあるだけ、お金の苦労は減っていくため、無尽蔵に欲しようと思えば、いくらでも欲しがり続けられるものと言えそうです。

 この日記は、私にとってのお金に関する考えを整理するためのものです。お金というものが私自身の思考にどんな影響を与え、目的のためにどのような解釈を与えることが最適か。この点を明らかにし、整理することができれば、お金に囚われることもなくなり、本当に自分にとって意味のあることに邁進できるはずです。

 多くの人が幸せになるという願いの根底(作品)には、社会的な評価に囚われない心持ちが必要です。結果として社会的な評価を成すことはあっても、本質なき、あるいは歪めるほど社会的な評価に固執する過程を選択することに意味はありません。

 

消費型と積み重ね型の楽しさ

 世の中の楽しさを大別すると、消費型と積み重ね型の楽しさがあると考えています。前者はお金から素直にイメージされる楽しさ、後者は成長からイメージされる楽しさ。

 消費型とは、基本的にお金を払えば得られるものです。美味しいものを食べたり、新製品を購入したり、旅行をしたり、今までに経験したことがないものを気軽に享受できますが、消費の名の通り、経験してしまったら新規性は薄れ、二度目、三度目と継続して同等以上の楽しさを得られるとは限りません。

 お金があれば、こうした楽しさを際限なく手に入れることはできますが、そもそもそこまで様々なものに触れたいと思うのか、興味があるのか、という欲求の部分に焦点を当てると、長年に亘り、継続されるイメージがなかなか持てませんでした。

 一方、積み重ね型とは、継続しなければ手に入らないもの。私の場合、こうした考察や一日一文のような日課がそれに当たります。文章の表現力を向上させるには、語彙は豊富に備えていた方が良いですし、考察も自己哲学の充実には必要なものとなっています。

 以前までは精緻な表現ができなかったけれど、今は幾ばくか満足のいくものになっているとき、成長を感じますよね。この成長の喜びはお金を払えば手に入るものではありません。さらに言うと、継続することによって得られる苦労も、楽しさをより浮かび上がらせるものとすれば、消費型とは明らかに質の違うものとなります。

 

人間の幸福と固有性

 人間の幸福に固有性は不可欠なものと考えています。固有性とは、アイデンティティ。その人にしか見つからないもの、考えられないもの、表現できないものなど、唯一無二の感性から成るものを発揮できたときに人間は自己の存在を心から肯定し、大きな満足感を得ます。

 一方、社会的に評価されるものは、自分が生まれる前から存在しています。社会(大勢の他者)によってより良いと規定されるもの。よく語られるのは学歴だったり、収入だったり、こうしたものを持っている方が“社会”から評価を得やすい。

 しかし、社会的な評価を全ての人間が追求するとは限りません。なぜかというと、他人から評価されるものと自分自身が評価するものが合致するとは限らないからです。唯一無二の感性、自分の好き嫌いや優劣の評価が他人と同じになるとは限りませんよね。

 固有性を発揮するためには、自己理解が不可欠になりますが、これは意外と難しい。その点、社会的な評価はわかりやすい。みんなが口を揃えて言うものだから、とりあえずそれを追求しておけば、間違うことはないだろうと自然と考えます。他人から羨ましがられたり、褒められたりすることで錯覚もしやすい。

 人間は生まれてから、自己を知る必要性はあまり語られません。いかに既存の社会的な評価を得るかを教えられます。そのため、何を追求することが自己にとって最も幸せを感じられるかではなく、みんなから羨ましがられるものにどんどん偏っていく。これには、みんなと同じだから安心できるという面もあるかもしれません。

 ちなみに創作はいかに既存のものとは違うか、という面があるため、作品と向き合っている方ならこの重要性はわかりやすいと思います。

 

自己理解と承認欲求

 人間が社会的な評価に影響を受ける理由は、自己に無知であっても、他者からの承認を得られることで、自己の存在を承認できるからというのがひとまずの結論です。

 いわゆる承認欲求とは、自己承認できないことに起因した他者依存の一つと感じています。自分で自分を評価し、精神を循環できる人にとっては、他者に承認を求めることは少ないのだけど、幼少期の過干渉が原因か、他者から承認されることによって報酬を得ていた環境であればあるほど、自身の固有性を他者に求める習慣が抜けない(一つの仮説として)。だからこそ、大勢の人が評価するものを求めて、それを手にした自分に喜びを感じる(弊害として固有性の競合があります)。もちろんこれ以外にも様々な要因が考えられますし、承認欲求自体を否定するわけでもありません。

 つまり、自己の固有性についての理解がない場合、人間は多くの人が価値として認めているものを追い求め、そこに自尊心を設定しようとします。社会的な評価の一つである「お金」によって、自身の行動選択が揺らぐ分だけ、自己に対する理解と合致する事柄の不足が考えられます。

 ただし、社会的な評価を追い求めることも、悪いことではありません。若い頃ほど、消費型の楽しさをどんどん享受して自分に合ったものを見つけること(固有性を発揮しやすい領域の発見)は必要ですし、その延長線上として社会から評価されたいという感情の芽生えは至って自然なことです。

 この話の肝は、お金は大事だが、固有性を発揮していく目的を超えることはないということ。こうした話は社会的な評価に対する忌避感を生んでいるように感じやすいので、ここは強調しておきます。自身の固有性を発揮した結果が、すでにある社会的な評価と合致している場合は運が良かったと素直に喜べるものですからね。社会的な評価に囚われないというのも、固有性を放棄したり、評価を目的に置くあまりに物事の本質を歪めることに意味はないということ。

 

消費型の限界から積み重ね型へ

 消費型と積み重ね型は明確に分けられるものというよりも、同時に存在しているか、物事の取り組みの途中で転換するようなイメージの方が正確かもしれません。

 学生時代から大人になっても様々な消費型の楽しさを人並み程度に経験してきたように思いますが、消費型の楽しさでは積み重ね型の楽しさは一向に経験できません。私は飽きっぽい性格でもあったのか、なかなか一つの物事が継続することもなく、一つのことに力を注ぎ続ける人々を観る度に、消費型を続けることに懐疑的になっていました。

 確かに手軽に楽しさが手に入ることはストレス発散にもなるが、しばらく夢中になったら飽きて、また別のことを探索して…と繰り返していくと、どうしても楽しさは逓減してしまいます。これが残りの人生ずっと逓減し続けてしまうのは、人生の豊かさや幸福感を更新するに建設的とは言えない。

 そこで楽しさとは何か?と考え、最初に述べたように消費型と積み重ね型に大別し、私自身に足りない「積み重ね型」の楽しさ、さらに自身の固有性に着目し、その合致度を考えたわけです。ここで創作的な思考も非常に役に立っています。小説(創作)とは突き詰めれば、自分にしか書けないもの、稀少性を追求する面があります。自分にしかできないものとは何か?の解を追い求めていくと、自身の固有性を考えないわけにはいきません。

 

お金からの逆算が合理的ではない

 そもそもお金は目的にならないという話を広げると、目的があって初めてお金は利用価値が生まれますから、お金だけあってもあまり意味がないわけです。

 自己の固有性についての理解度が低い状態だと、自分が何を欲しているのか、自分の人生を豊かにするものが判然としていない状態ですから、社会的な評価を基準にお金の消費先が決定されますし、人間の欲深さをこれでもかと掻き立てることになります。他人の欲しがるものに自分を重ねるわけですから、際限がありませんよね。

 また、積み重ね型として私は作品と偶然出会い、こうしたブログや作品についてあれこれ綴っていますが、お金からの逆算は作品の完成度にそれほど寄与しません。やはり、より良い作品を執筆することを目的に置いた方が自然です。

 まず、お金を目的に置くと、お金という結果が還元されないとやる気の維持に問題が生じます。作品の場合、よほど運と才に恵まれない限り、一攫千金は不可能に近い。商業的な事情を言えば、作品の内容よりも、有名人や誌面の認知度が結果に大きく影響します。作品を知られなければ、商業として成り立たないわけです。

 次に、盗作盗用などの不正や他作品の評判を落とすような望まれない行為を誘発しかねません。お金が全て、お金を得られるなら何でもやるまで繋がっている「お金を目的にする階層」には、自分さえ良ければ―の精神で作品を捉えてしまう可能性があります。

 お金を得る手段としての作品ではなく、より良い作品を執筆する手段としてのお金、もしくは作品の結果としてお金を得るでは似ているようで全然違います。お金を得ること自体は全く否定しませんし、素晴らしい作品の対価としてお金を望むことはあって然るべきと思います(でないと作品が潰えてしまう)。

 固有性を発揮する観点からも作品の完成度を何より望み、継続するための手段の一つとしてお金があるという意識が最も良いはずです。

 

お金に囚われなくなったら

 自身の固有性を放棄し、お金を求めても幸せになれないのではないかと感じるわけです。消費型と積み重ね型の楽しさに優劣をつけるわけでもなく、人生の楽しさは全て消費型で完結するという方針もあると思いますし、消費型には応援の意味合いもありますから世の中にとっては不可欠なものです。ただ、楽しさの性質を紐解くと、消費型と積み重ね型は明らかに違いますから、この点を無視する意味は小さい。ゆえに積み重ね型を軸とし、消費型は積み重ねの継続問題を解くものとしています。

 また、お金という評価に囚われると、他人に対する見る目も変わりませんか。人間は固有性を発揮することに幸せを感じるだけでなく、固有性を理解されることにも幸せを感じます。他者との関係を築く際には、特に固有性への理解は信頼に直接結びつくものと思います。お金には固有性が投影されない以上、お金を評価する、バイアスのかかった他人に信頼を寄せることは難しいでしょう。他人に対して優しいと言われる人ほど、社会的な評価から遠ざかる傾向もありますし、お金よりも遥かに相手の固有性に着目した方が互いにとって建設的と思います。

 それにお金が心を貧しくし、卑しさや浅ましさが増長していっても意味がありません。お金によって幸福を感じやすい認識から遠ざかってしまっては本末転倒です。人格的なことで言えば、お金が余裕を生み出さないのであれば、お金なんてない方が良いとまで言える状態もあります。

 人生の豊かさは、自身の固有性を発揮すること、他者との固有性の相互理解、それらを軸にした独創的な形と最良の認識を実現していくことなのではないかと思います。これらの結果としてお金が得られ、さらに選択肢の広がった手段として、また新たな形を模索し、更新していく。

 

終わりに

 この話は突き詰めれば、お金によって自身の認識をどのように変えるか、変えたいか。お金によって本当に変えられるのかということ。

 人生を豊かに、最も幸せを感じるような認識の手段としてお金を捉え続ければ、お金に振り回されることもなく、常に自身の固有性、それに基づいた他者への貢献によって心から自己を肯定できる日も近い(正確に言うとお金に限らず、本質以外のこと全て)。

 もしかしたら多くの人はただなんとなく幸せらしいことに満足しているのかもしれないし、だから本質以外のもの全て(この話ではお金)に引き寄せられてしまうとも思いますが、どこまで行こうが固有性を発揮することを前提にしなければ、個体としての幸せを最大限引き出すことは難しいと思います。作品においては商業的な戦略も大切ですが、これが作品の質よりも大切になることは個人的にあり得ません。

 余談ですが、自身の固有性を発揮することを第一にする作品は、その固有性を軸に社会(大衆)との接点を模索する段階があります。通常、すでに社会には画一的とは言え、用意された受け皿があるのですが、人間の多様さに対応できているわけではないため、真に自身の固有性を発揮し、社会との共存を模索する創作、延いてはそこで広がる思考は全ての人に何らか経験して欲しいと思うこともあります。

 今の私は自身の固有性を追求し、技術を磨いている段階ですが、これを作品としてどのようにまとめるか(社会との接点)。仮に作品が日の目を浴びなかったとしても、自身の固有性がどのような形で存在し続けるか、その答えは見つかると思うので、そうなったら心から喜べる瞬間となるのではないかと想像しています。固有性の発揮が難しくなくなれば、人生の豊かさは次の段階へ移行するはず。