人間の精神構造

「人間の精神構造」ということで、自己肯定、自己否定、精神的な余裕、感情(欲望)の発散、感情と理性の領域、社会的な自己、自己愛に満ちた自己など、私自身の直観に基づくキーワードから人間の精神構造のイメージをより具体的に記してみたいと思います。

 

自己のイメージ

 自己を形成する概念とは何か?と問いを立てたときの結論は二つありました。人間には固有の命が一つという認識が当たり前に感じられたため、自己という固有の概念も同様に一つのものから形成されていると仮定しましたが、考えを進めていくと、その概念は一つでは包括できない気がしてきました(大きく言えば一つなのかもしれないが)。

 それはどう考えても、他者との関係性の中を生きる自己、関係性から表出する自己の存在を無視できなかったからです。自分の意思によって形成される自己だけではないということ。自分なのに自分ではない意思によって動かされる、形成される面がある。

 自己のイメージが一面的ではない実感は強く、おそらく人間は多面的であると結論付けた方が腑に落ちます(少なくとも二面以上ある)。形まで言及するなら、球体でグラデーションを帯びているかもしれないし、もしくは裏表のように常に紙一重で入れ替わるイメージに私は落ち着きます。

 人間の精神は「直線」のようにある方向に波打つこともなく、一定の速度で進み続けるものではなく、球体の中を様々な色が目まぐるしく渦巻いているに近い。波紋を立てることなく佇む水面のように落ち着くということが稀で、落ち着いているようで実は揺らいでいることの方が圧倒的に多い。人間が自己愛に満ちた自己を確認する傾向にあるのも、揺らぎに不安を覚えるため、揺らいでいない自己暗示で安心しようとする本能と解釈します。「頑張るぞ」「大丈夫」と自分自身の気持ちを奮い立たせるのも、自己の固有性を確認し、守るためです。

 こうした自己のイメージはまだまだ具体的になっていませんが、「誰かの期待に応える自分」と「誰の期待に応えるでもない自由奔放な自分」が自己を大きく占める性質という直観が思考を前進させてくれたため、それぞれ「社会的な自己」と「自己愛に満ちた自己」という解釈に至りました。言葉なので、いくらでも言いようはありますが、イメージとの合致、表現として的確に感じたのがそれらでした。ちなみに個性とは、その二つに備わった特性、傾向と考えています。

 

社会的な自己と自己愛に満ちた自己

 人間には誰しも「自分は自分である」という他者と区別をつけるための意思があります。この意思が全うされるとき、人は幸福を感じます。感情と呼ばれる心象も、他者と区別をつけるための意思の源であり、全うされるときには幸福を感じます。

 例えば、悲しいときに泣く、おもしろいときに笑う、言いたいときに言う、食べたいときに食べる。こんな風に感情が浮かんだときに、感情に沿った行動が発散できると、人間は幸福を感じる。逆に発散できず、抑圧されてしまうと、ストレスとして蓄積されます。

 しかし、人間は社会的な生き物でもあるため、社会に属す自己という認識から「社会的な自己」も同時に形成されています。学校や会社、延いては社会全体の一人として与えられた役割や義務を全うする自分の存在を無視できません。

 平たく言うなら、社会では生計を立てるために他者の期待に応える自分を形成した方が合理的ということ。自己愛に満ちた自己は非常に自分勝手であるため、他者との関係性においてはあまり良い働きをしてくれない場合が多いのです。

 人間の自己矛盾は、この社会的な自己と自己愛に満ちた自己の二つが同時に存在しているから生じるものと考えています。

 

生命力と精神の抑圧

 人間の個体としての生命力は、肉体と精神によって決まると考えています。生命力と幸福感は類似した概念で、生命力が高まると幸福感も比例して高まるものです。

「自分は自分である」という主張(感情の発散)は、生命力に溢れた人ほど顕著に示されます。逆に自己の認識を持ち続けられない人は、無気力で無関心な様が確認できると思います。さらに言えば、「自分は自分である」という主張をしなければならない心理状態もあるでしょう。生命力に溢れた人ほどコンプレックスを指摘されたときの主張はとても強くなる。

 人間は生命力の高さ、あるいは固有の自己が脅かされるという認識に応じて、自己愛に満ちた自己を表に出して自己の存在を確認します。自己愛に満ちた自己が表出することに幸せや安心を感じるため、生命力に溢れた人ほど誰かの指図を受けることにつまらなさを感じ、反発したくなる気持ちも芽生えます。誰しも他者の固有性に付き合うこと、画一的な枠組みに組み込まれることが不満なのです。

 ただ同時に、先に述べたような合理化として社会的な自己も備えている場合がほとんどなので、社会的な自己によってそうした自己愛に満ちた自己が抑圧されるということもよく起こります。組織に属せば、当然自分勝手な振る舞いは自重せざるを得なくなりますし、組織に属さずとも、社会的な要求に応えようとするとき、合理的な判断として自己愛に満ちた自己を抑制します。あらゆる他者との関係、自分勝手に振る舞うことができない時間と空間を生きる上では、自己愛に満ちた自己を抑圧せざるを得ないということがあるわけです。

 しかし、誰であっても、こうした精神(感情、自己愛に満ちた自己)の抑圧はストレスとして生命力を奪うことに繋がっています。自分勝手に振る舞うことができない時間と空間を生きるための合理的な判断だったとしても、人間は生命力を代価に社会的な自己を全うしている場合が多い。

「精神的な余裕」とは、抑圧に対する許容量とも言えるもので、その量は個人の性格や考え方、与えられた役割、義務、認識によって変動します。基本的に他者の存在が人間(個人)の精神には幾何かの負担をかけているため、精神的な余裕を確保するための方法が確立されていない場合、生きた年月の分だけ生の徒労感を抱くことになります。

 

ストレス刺激と想像力

 人間は、危険なもの、不要なものに対しては否定的な反応を示す生き物でしょう。ストレスのような不快感は代表格です。これは「否定の否定の正当性」でも述べた通り、よくわからないものはひとまず否定して距離を取るというのが生きるための術、とても合理的な反応なのです。

 こうしたストレスのような不快感は、自身にどんな影響を与えるのか。結論から言うと、自己愛に満ちた自己の維持が困難になります。 

 些細な不快感なら気にも留めないでしょうが、人によっては些細な不快感から大きな不快感を想像してしまうかもしれません。人間の危機に備える反応、「否定」を引き出すとき、危機を想定するために想像を膨らませることもまた合理的と言えます。

 ここで、そうしたストレス刺激を自分自身に対して繰り返し与えている状態を想像して欲しい。過去にあった嫌なことや不快に感じたものを想像し、それが毎日、自分自身に付きまとい、夢にも出てくるほど繰り返されたとします。すると、自分自身はどのような状態に陥るでしょうか。

「自分は自分である」という認識を維持するために、ストレス刺激に対しては否定的な反応を繰り返す。全てを跳ねのけ、自分自身を守ろうとする。しかし、段々と否定して遠ざけることに疲れてくると、自己愛に満ちた自己の存在を認識、維持できなくなり、この場合、本意ではない恐ろしい結果へ繋がると推測します。

 自己愛に満ちた自己は、根本的な存在承認として生命力を維持するために不可欠な機能を備えています。感情的な振る舞いも、危機的な状況に置かれている人にとっては正当化(肯定)されて当然であるという心持ちであり、そこに自分は間違っているという否定を持ち込むことができないのも、自己愛に満ちた自己が破綻してしまっては元も子もないからです。

 

自己肯定と自己否定

 今までのことを踏まえると、自己肯定と自己否定は「自己愛に満ちた自己」と「社会的な自己」とそれぞれ捉え直せるのではないかと思います。

 自己肯定感が足りないことが“悪い”と判断したくなるのは、生命力の源の一つである自己愛に満ちた自己を肯定することによって生命力の高まりを感じるため、肯定が足りないとは等しく生命力の低下を意味するからです。ただし、社会的な自己とは、基本的に自己愛に満ちた自己を抑圧(自己否定)するため、自己肯定感が高まると自分勝手な振る舞いが増えて、社会的な自己によって制御できなくなる恐れも仮説として立てられます。

 なので、私は自己肯定と自己否定はバランス良く、あるいは広い意味としての自己肯定(存在承認)であれば良いという直観があります。これは自己イメージをもっと的確に表現できたら結論も変わるかもしれません。

 さて、ここで一つ疑問があります。社会的な自己によって、自己愛に満ちた自己が抑圧されない状況はあり得るのか?ということ。結論から言えば、あり得ます。

 例えば、組織の中で自分勝手に振る舞うことを許容されやすい立場にいると、社会的な自己によって自己愛に満ちた自己を抑圧することが状況として考えにくくなります。身近な人間関係で言えば、他人を気にしない人ほど、自己愛に満ちた自己(感情、欲望)を発散させるでしょうから、社会的な自己の必要性が低下すると考えられます。お金が潤沢にあって、誰の指図を受けずとも生きられる状態もまた同様ですね。

 しかし、おそらくどんな状況に置かれても社会的な自己の存在は消えることがありません。この世界に自分一人しかいなければわかりませんが、他者との関係性を切り離せない以上、他者から観測される自己、関係性の中に存在する自己が完全に否定されることはないはず。

 

人間関係の摂理と感受性と想像力

 人間関係の中でも、特に感情の発散がどのように分布するかを感受性から紐解いてみたいと思います。

 人間関係における個人の感情の発散が行われるための必要条件は、他人を気にしないということです。他人の考えや態度を気に留めてしまう人ほど、それを前提に行動選択するので自己愛に満ちた自己を抑圧する傾向を生みます。

 人間は絶えず幸福感を得たいため、常に感情の発散を意図している生き物です。個人が感情の発散を行うと、当然、他者にとっては固有性を奪われる錯覚を抱くため、不快に映ります。基本的に個人にとって他者の存在はストレスと隣り合わせなのです。

 ここで感受性と想像力が重要な要素としてあります。他人の言動から得られる情報の中でも、特に感情の情報は受け手の感受性に依存していますし、その多寡は想像力によって変化します。感受性が豊かな人ほど、他人の些細な言動に気づき、その言動の解釈は想像力を持って決定しているということですね。

 すなわち、感受性と想像力が豊かな人ほど、他人の言動から得られる情報は多くなり、行動選択にも影響を及ぼします。すると、他者の固有性を奪う自身の感情の発散にも罪悪感を抱きやすいため、自己愛に満ちた自己を抑圧してしまうのです。もしかすると、そういう情報があっても気にせず、発散できる人もいるかもしれませんが、例えば、赤信号と認識して車を走らせることと、そもそも赤信号とは知らずに車を走らせた場合を比べたとき、罪悪感を抱きやすいのは前者のはずなので、情報が頭に入ってしまった時点で多少なりとも抑圧されている認識を持つものと思われます。

 これを人間関係における感情の発散の分布として考えると、相対的に他人を気にしない人が中心となって分布することがわかります。感受性や想像力の豊かな人が総じて「優しい」という評価を受けるのも、他者の感情の発散に付き合っているからであり、無個性の要求に応えているとも言えます。しかし、人間の固有性はいくら頑張っても消えることはないので、乖離した分だけ当人のストレスになります。

 

感受性と想像力と幸せの形

 確かに感情の発散が促されるほど、人間は幸福を感じますし、時に他人を気にしない生き方や考え方がもてはやされるのも、自己愛に満ちた自己の発散を肯定されているからと思います。しかし、他人を気にするほどの感受性や想像力も建設的に捉えるなら、それに合わせた幸せの形が存在します。

 他人を気にしないとは、他者との関係構築においては欠点にもなり得ます。

 例えば、A(自分)とB(他人)の選択肢がある場合、他人を気にする人は「B」の選択肢を選びやすいと思いますが、AとBを包括した第三の選択肢として「C(自分と他人)」という双方にとって利益のある選択肢の模索には「B」の視点が不可欠になります。

 このとき、互いに「B」の視点から考える二人ならば、「C」の結論に移行しやすくなります。というのも、普通は自己の感情を発散させる方がわかりやすい幸福感に繋がっているため、自分にとって、ともすれば自分さえ良ければ―を選ぶ傾向が強いからです。「A」の選択肢は誰もが直感的に導けるということ。「B」の選択は自分ではない他者の立場を“想像”する必要があるため、想像力を持っている人ほど「B」の理解は深くなり、より良い「C」への発展形を模索できます。

 ただし、人間関係は相対的なものであり、主導権は他人を気にしない側が持つような場合、この考え方は通用しなくなります。主導権という概念をなくすか、あるいは常に第三の選択肢に主導権を置くような相互理解に基づく検討が頭になければ意味がありません。気を抜くと互いに「A」しか考えられなくなります。

 

成功と失敗の刷り込みと精神のバランス

 想像力は一つの先入観とも言えますから、自身の経験によっても大きな影響を受けています。生命力に満ち溢れている人は、総じて成功体験が外せない要素としてあるものと思います。逆に失敗が多ければ、想像は自分自身に悪いものを映すでしょう。否定的な反応が危機察知能力であるように、失敗を避けるために想像力がブレーキをかけるのです。

 想像力の方針、先入観が自身の経験、特に成功体験か失敗体験に左右されるのも、一種のバイアスと考えられます。これによってもし自分自身を苦しめるようなことがあった場合、バイアスを回避する考え方を持てば良いという結論になります。

 例えば、失敗が多くて、何をやってもうまくいかない、自分自身の能力にも人生にも否定的である場合、自己肯定感は下がります。自己肯定感が下がるとは、自己愛に満ちた自己を肯定できなくなっていくわけですから、身の危険を感じやすい余裕がない状態です。

 このとき、バイアスを回避するとしたら、自身の認識を把握して考える必要が出てきます。これが自己に対して自覚的になるということですが、解決策としての難易度は高い。大金によって人が変わることも、失敗が続いて精神的に病んでしまうことも、ストレス刺激と同様に環境からの影響によって、今までに経験したことがない自己の存在を認識できず、自分自身の操縦が全く上手くいかずに暴走してしまっている状態です。

 この新たな自分の操縦は簡単ではありません。まず自己愛に満ちた自己を肯定できない、感情の発散が行われないとも言える状態ならば、感情と理性で述べたような「感情的な反応」を呼び起こすため、無自覚な自己正当化に囚われてしまって、自己認識する余裕(理性の領域の確保)がありません。

 多くの人間が無自覚にバランスを取れているのは、自己愛に満ちた自己の肯定、感情の発散がほどよく行われていたり、生命力(精神的余裕)を削るような自己否定をむやみに選択しないためと思われます。より良く生きることが目的の人間にとって、最良の解釈を自分自身に与え続けるサイクルがあるこれを何が狂わせるのかというと、自己愛に満ちた自己以外からの影響、「社会的な自己」によってなのです。社会的な自己からの影響とは、具体的には人間を縛る社会的な評価や他者の存在、価値観です。外界からの刺激そのものか、それをきっかけに自分で自分を苦しめた結果なのか、バランスを崩し、操縦不能に陥り、どうしたら良いかわからない悪循環を彷徨うことになってしまっているということですね。

 例えば、完璧主義な人ほど精神的なバランスを崩しやすいと言われるのは、強固な社会的な自己が自己愛に満ちた自己を抑圧することで成立する生活習慣に身を置いている場合です。ストイックな人がストイックでいられるのは、成功した結果による精神的余裕の還元があるから成立しているに過ぎず、逆に言うと還元なきストイックはいつか破綻します。

 そうした成功や失敗の刺激の他にも、相対的に他人を軸に考えてしまう人ほど、感情を抑圧するストレスの捌け口、できれば建設的な方法を早くに確立できなければ、あるいは自己の感情の発散を促せる人間関係に身を置かなければ、自己肯定感が逓減し、いつしか生命を維持する意思までも脅かされてしまいます。

 だからこそ、異なるものの解釈や社会的な評価に囚われないことを私は考えていますが、一方で自己肯定感が下がっているにも拘わらず、自己否定を繰り返す場合もあります。

 

成長の自己否定と幸福感

 成長には、一時の自己否定を伴うことがあります。今よりも変化することを自分自身に要求するには、今の自分ではダメだからと仮定した方が効率的だからです。失敗経験が多くて、自己肯定感が下がったとしても、今よりも成長することで新たな自分、肯定できる自分になれるかもしれないと思って、さらに自己否定を塗り重ねることがあるわけです。

 否定は感情的な反応を引き出しやすいわけですから、今の自分を否定すれば、否定されない自分にすぐ移ろうとします。肯定も積み重ねれば、成長を促すことはできるはずですが、否定に比べて即効性は低い。

 しかし、こうした成長のサイクルは幸福感の増加に寄与しません。むしろ逆効果になります。

 人間の幸福感は、自己愛に満ちた自己の肯定、感情(欲望)の発散とすれば、否定によって変化することは感情の抑圧に近いもので、大きなギャンブルなんですよね。今の自分を否定し、結果を手に入れたら自己肯定できるという条件では、結果を手にできないときにまた自己否定から自己肯定感(幸せや楽しさ)を下げながら努力して…と繰り返していくことになりかねない。

 だから誰もが過程を楽しむことができる状態を理想とするのです。結果ではなく、成長にこだわることも、結果は時の運にも左右されますが、成長は裏切らない。正確に言うと、成長していないという解釈になりにくいから、結果よりも自己否定に結びつきにくいということだと思います。

 ただ自己肯定にしても、自己否定にしても、これらは自己の認識、基準、価値観に基づいた解釈に過ぎません。なので、基づくものを変化させることができれば、自己肯定からの幸福感は増大し、自己否定からの幸福感の逓減も防止できる期待が持てます。

 

終わりに

 この辺から「認識の是正」という話になり、結局のところ、人間の幸福感は認識によって全てが決まるという結論が予測されます。ですが、人間には建設性を求める性質があるために認識が更新されてしまうジレンマがあり、お腹が空いたときのおにぎり一つ食べる度に思い出すようなことが起こる。

 さらに考えていくと、認識とは何か?と深掘りしていくことになるのですが、このとき「言葉」「音」「数字」のように私たちが物事に触れるときの「形」がとても重要な影響を及ぼすのではないかと推測したくなります。環境からの影響を分析するとき、影響するものの閾値、元素のような最小単位は無視できない。子供の学力が親の学力、家族との会話の質などに影響されるという話から紐解くとわかりやすくまとめられるかもしれません。

 しかし、この日記は今までに考えていたもの、キーワードを整理するつもりで書いたのですが、途中から派生して書きたいことが溢れてしまって、今ひとつよくわからない内容になってしまった。個人的にはここからさらに深く掘り進めて、作品イメージに少しでも結びついてくれたらと思っています。

 もちろん、偶然通りがかった人が読んだとしても、何らか役に立つ、人間の性質を理解するヒントになっていたらとても嬉しい。日常の些細な事柄から思考を巡らせるだけでも、自己や人間の本質に迫れるので、疑問一つ立てて考えてみるだけでも世界は変わりますね。