感情と理性

 物事を感情と理性の二つの領域のどちらに置くのか。それによって見方も、結論も大きく変わると考察してきました。今回は、理性の領域に関することを整理しながら、もう少し深く考えてみたいと思います。

 前回の結論から、理性の是非に留めるのならば正当性を持つとして、理性の領域とは何か。この点についても具体的にしていきたいと思います。

 

物事の捉え方

 物事を捉えるとき、人間には感情と理性の二通りの捉え方があります。これは意図して選択するには難しいもので、また正確には感情と理性の両方で捉えながら、主要な判断を下すためにどちらかの領域に物事を置いているというイメージです。

 物事を感情で捉えることは良し悪しですが、悪しき面は恐ろしい性質を備えています。この点については「否定の否定の正当性」にて述べました。

 一方、理性で捉える(=理性の領域に置く)とは、感情に比べれば、中立的です。自分を間違っていたと判断することもできますし、感情とは違い、むやみに自己正当化を繰り返すことはありません。しかし、理性の領域に置くことは意識、訓練しなければ、領域に置き続けることも、さらには拡張したり、判断の質を上げたりすることもできません。

 なぜなら、多くの人間は感情でとらえること(感情の領域に置く)を優先してしまう上に、自分以外の視点から物事を検討したり、考察したり、配慮したりするためには相応の知識や経験、成長が必要になるからです。何も考えずにいれば、感情の領域で考えることに終始してしまって、物事を中立的に見ることすら難しくなります。

 真に他者とのより良い共存を目指すためには、自分にとっての是非だけでなく、全体にとっての是非も同時に検討することが必要なはずなので、ここで改めて理性の領域について考えを深めたいと思います。

 

感情の否定を理性

 では、具体的に理性の領域に置くとは、どういう状態を指すのか。これについて考えるために、人間が優先しやすい感情の領域に置いている状態、感情的な反応から考えてみたいと思います。そして、その状態の否定形を「理性」とします。

 それと、そもそもなぜこんなことを考え始めたのか。これは前回の最後にも少し述べていますが、小説に触れて、自分にしか書けない作品とは何かを考え続けている中で、自己とは何か?という問いを立てる重要性に気づき、もともとの性格的な傾向も拍車をかけて自己を探求するようになりました。

 ここに書かれていることは、私から見える人間の性質、物の見方、延いては現実の世界観であり、自己を解明する意味でもとても重要な情報です。結局、世界は私という存在単位でしか見通せないのであれば、その世界を起点に物語へ発展させることが最も自分にしか書けないという理想に近づくのだろうと思います。

 そんな中で感情は、自己を守るためであり、確立するためのものであるという直観が腹に落ちた一方で、理性によって他者を守ろうともする。これは社会的な“べき論”から一種の真善美へと昇華したものとも感じられるのですが、人間が共通して抱える孤独感から紐解くと、他者を求める理由も肯ける。ただ、自己から派生して人間そのものについて考察していくと、やはり感情の性質は恐ろしいし、感情と理性の分別をつけることの価値は非常に大きい。

 あくまで雑多な考えの整理に過ぎませんが、自分自身もまだ見ぬ思考過程が明らかになっているのだろうと客観的に期待しています。

 

感情に基づく行為(感情の領域)

 話が脱線してしまいましたが、感情に基づく行為とはどのようなものか、どういう形で発現するのか。いくつか例を挙げてみたいと思います。

 まず、感情的な反応(感情に基づく)は良し悪しとしています。決して悪いことばかりではありません。喜びや楽しさのような肯定的な感情は、感情的な反応が大きい人ほど大きくなりますし、肯定が他者に対して直接的な害になることは比較的少ないはずなので“良い”ことと考えています。

 一方、悪しき点。感情に基づく行為は、目の前のことに固執し、他者を寄せ付けません。自身の感情に基づく行為には無自覚である場合が多そうですが、他者のそれは観測しやすいと思います。

 例えば、自分の意見を絶対だと思い込んだり、他の意見を全く検討しなかったり、他者からの否定を受け付けなかったり、威圧的であったり、煽ったり、遮ったり、こうした自分のことばかりに頭が一杯で他者や全体への配慮が欠けるような言動であり、迷惑とも捉えられるものは感情に基づく悪しき点としています。ただし、これらが全て等しく感情に基づく悪しき点であると断定するわけではありません。

 日常的な例を挙げると、誰かに悪口を言われたとします。心や精神、自尊心は固有の人間らしさを保つものであるため、傷つけば人間は強い拒絶反応を示します。こういうときは顕著に感情的な反応を示し、社会的な是非ではなく、とにかく自分は正しいんだと思い込み、他者を問答無用で排斥するでしょう。

 感情的な反応(否定)をある種の本能的な反応、危機察知的な力と考察しているのも、こうした現象を観測できるからです。自分は正しいという結論ありきのほとんどの行為は、感情に基づいたものかもしれません。しかし、人間は感情と理性の混合物であるため、感情的な反応と言っても、正確には感情優位に過ぎません(理性も存在している)。そのため、自分は正しいという結論ありきであっても、暴論にならないことがあるのは、理性によって冷静な部分があるからです。

 他者から否定されたときに、人間は「自分は正しい」という感情と「自分は間違っている」という理性がせめぎ合っている状態が生まれます。ここで感情優位な人ほど、「自分は正しい」という気持ちが優先されてしまうため、他者に対して牙を剥くことがあるのです。感情が理性を呑み込んで、理性が感情による結論の正当化のために働き始める。逆に理性優位であれば、自分は間違っていたと感情を抑制しながら冷静さを取り戻そうとする。

 

理性の領域に置くとは

 誰でも自尊心を傷つけられれば、感情的な反応を示すし、そこを社会的な是非、理性で捉える第三者がいたら、話が噛み合わなくなるのも肯けます。話し合いの場において、常に理性的であることが求められているのも、感情的な状態になってしまうと「自分は正しい」という結論しか見えなくなってしまうし、それを相手に悟られると根拠に乏しいものとして映るからです。

 理性的な反応は、感情的な反応の否定としたので、自分の意見を“絶対に正しい”とは思わない、他の意見を検討する、他者からの否定にも価値を認める、落ち着いた口調で話す、感情を煽らない、遮らないなどになります。これらを冷静に何のわだかまりもなく選択できる状態で物事を捉えることを「理性の領域に置く」としています。ただし、理性の領域に置いたとしても、感情の割合(領域)はゼロになることがありません。いつの間にか、感情の領域に置かれてしまっていることもあります。

 つまり、理性の是非に留めれば正当性を持つとは、感情と理性の領域を分別し、理性の領域に置かれた物事に対する否定にも一定の価値を認めるということになります。感情と理性の混合物である以上、人間と行為そのものを分けることは難しい面もあるのですが、行為のみを切り離して捉え、人間としては寛大に受け止める姿勢こそ、不完全な人間を上手に許容する術と考えます。

 これは階層を持った結論であるため、もちろん、全てにおいて適用できるわけではなく、社会秩序、とりわけ人々に危機を感じさせる事柄(感情的な反応の大きいもの)ほど分別をつけるかどうかの議論は存在し続けます。日常での事柄はそこまでではないので、平たく言うなら、理性的な振る舞いに価値を認め、感情的な反応には注意を払うという結論です。

 

感情の領域と自尊心

 ここからは発展的な話になります。感情と理性の分別をつけることを理想としていますが、実際に行うには難しい面もあります。なので、そもそも人間は感情と理性の分別をつけることが“できない”と仮定した場合、どんな結論になるのか。それについて少し考えてみたいと思います。

 まず、感情と理性の分別をつけることが難しい理由はいくつかあります。

 一つは、感情と理性の境界線が判然としないこと。感情と理性によるそれぞれの反応から成る行動は理解できても、自分自身の行動が常に何対何の割合で行われているか、簡単に変動もするためにわかりづらい。簡単に変動するとは、感情的な反応を引き出すことは容易であるということです。

 他にも、感情的な状態ほど自身に対しては無自覚である場合が多く、言ってみれば感情的になっているかどうか記憶にもないという状態です。こうなると、自身の非を見つけることも、認めることもできないため、一向に改善されません。もしかすると、過去の記憶まで感情によって改ざんされてしまうこともあるかもしれない。さらには、感情と理性、どちらに基づくかどうかは個性であるため、最初から一生変わらないという可能性もありそうです。 

 では、このような理由によって分別をつけることができないならば、最初から感情的な反応を引き出さないような状態を実現できれば良いのではないかと考えを進めます。

 そして、ここで自尊心についても考えてみたいのです。自分は自分である、人間の固有性を保つための感情の領域に、ひときわ輝く自尊心の存在。この自尊心を紐解けば、もしかすると感情的な反応を根本から改めることができるかもしれません。

 

自尊心の構築

 現代社会における自尊心は、往々にして競争環境や社会的な評価に囚われることで築かれていると想像します。

 例えば、競争環境による弊害として、自尊心の構築が勝者にだけ与えられている側面があります。決して競争そのものを否定するわけではありませんが、敗者に対するフォローや活路を十分に見出されていない競争環境の場合、負ける=自尊心を構築できないという解釈につながりやすくなります。そうなると、自尊心の構築のために他者を否定したり、足を引っ張ることが想定される。社会的な評価に囚われることも同様です。

 つまり、自尊心の構築や維持に、そもそも間違いがあるのだと思います。これは自尊心を何に紐づけるかという話かもしれない。客観的に評価される事柄、競争環境なら「勝者」、社会的な評価なら「お金、名誉、地位など」と自尊心を紐づけると、勝者になれば自動的に自尊心は高まってくれます。

 しかし、こうした他者の尺度、評価に依存した自尊心は、新しい評価によって逓減することもありますし、これもまた競争と同様に新たな評価を否定することで自尊心を維持してしまう。新たな評価の否定(感情的な否定)は、多様性の否定へと繋がり、他者を無条件で肯定することから遠ざかるでしょう。そして、感情的な否定は否定を呼び、自分自身まで否定される。こうした負の連鎖が生まれやすいのです。

 理想を言えば、そうした他者の評価に依存しない自尊心の構築を求めることになりますが、これだけ競争環境や社会的な評価がもてはやされる中で自律することは簡単ではないでしょうし、それらを求めることも悪いとは言えない。ただ、競争の勝ち負けではなく、社会的な評価でもない自分で自分を肯定できるものを見つけることは大切と思います。

 その自分で自分を肯定できるものは、自分だけでなく、身近な人のためであったり、社会のためであったり、自分以上に広がりを持つものの方が良いでしょうし、人を怒らせたり、悲しませたりするものではなく、喜ばせたり、楽しませたりするものの方が幸せを感じるでしょう。さらに、これらは常に理性の領域で改善を繰り返しながらの方が建設的です。

 感情と理性の分別をつけることが絶対にできないのならば、そもそも感情的な反応にさせないための自尊心を構築できれば良いのではないかということを考えてみました。

 正確に言うと、理想的な自尊心が構築されたとき、他者からの影響を受けることが大きく減少するため、競争や社会的な評価を基準に否定されることがあったとしても意に介さないということです。こうなれば、感情的な反応は引き出されず、その弊害のない言わば理性の領域に物事を置き続けられると言えそうですが、全く感情的な反応を示さなくなるのかというと、そういうわけではありません。

 それは、自分自身の評価をきっかけに感情的になる可能性があるということですが、コントロールできない他者とコントロールできるかもしれない自己、どちらが不確定要素が多いのかと言うと前者であるため、どちらの自尊心がより感情的にならないかを考えれば、他者に依存しない後者と思います。

 自尊心の形成過程に踏み込めれば、また新たな発見がありそうですが…それはまたいつか。

 

終わりに

 ここまで一気に書いて疲れたので後日、追記予定。