「否定の否定」の正当性とは

 ここ最近の事柄を整理しながら、排斥的な行為、否定についてもう少し深く考えてみたいと思います。

 

否定的な反応とは

 自分とは異なるものを否定する行為は、一種の本能的な反応で無自覚に行われる場合も多く、第一にそのような反応に沿って言葉や態度を表明してしまう人は珍しくありません。特に怒りの感情と結びついた無自覚な否定は、相手の人格まで容易に手が伸びます。時にダブルスタンダードになっても、無自覚さゆえに気づけないということもありますし、感情的な反応は自己愛に満ちた自己にとって正しいことなので、自己正当化も簡単に促されてしまう。

 相手の気持ちに立って考えるとは、意外と難しいもので「想像力」を必要とします。作中でも登場人物一人一人の気持ちに立って、言葉を紡ぐことは簡単ではありません。この場面で、この登場人物はどういう気持ちでいるのか。登場人物の深い理解と愛情がなければ、私自身の思い込みだけで判断してしまう。

 常に人間は多面的なのに、自分という一方向の視点から眺めることが精一杯で、特に否定的な感情が引き出されたときは自分の視点が絶対だという思い込みを誘発し、自己正当化と共に他者を否定することがあります。感情に囚われることは良し悪しですが、悪しき面は他者の人格までも簡単に葬り去ろうとする強大な衝動を秘めています。

 

人格の否定の否定と矛盾

 人間は誰しも不完全で、失敗することがあります。例えば、人間関係において、仲良くなろうと積極的に声をかけてみたが、相手はひどく消極的だったことに気づかず、逆に距離が開いてしまった。相手がどういう気持ちでいるのか、自分に対して何を思っているのか。それらを全て把握することは難しいので、こういう距離感を誤ることは誰にでもあるはずです。

 こんなよくあるコミュニケーションの一節で、もし相手を傷つけてしまったときでも、謝罪と反省によって態度を改めることができます。最初から全てを想定することが不可能な以上、失敗に不寛容では失敗を認めないか(相手のせいにするか)、失敗を隠す風潮が生まれてしまいます。

 人格の否定は、行為そのものの否定よりも強度が高く、再起まで否定する恐れがあります。ゆえに人格を否定してはならない、人格の否定を否定するという結論になります。しかし、人格の否定は悪くて、人格の否定の否定は良いのか。同じ否定なのに、なぜ片方は認められて、もう片方は認められないのか。

 先に述べたように「否定的な反応」とは、固有の領域を守る反応で、自己正当化も簡単に促されてしまうところがあります。そのため、「人格の否定」も「人格の否定の否定」も同じ否定的な反応であるなら、どちらも固有の領域を守る自己正当化、つまり、個人の好き嫌いを他人に押し付けているだけではないかという疑問が生まれます。

 個人の極限は必ずしも社会的ではないというのも、本来は個人(自己に固執すること)と社会(他者と共存すること)は矛盾しているわけです。こうした矛盾が生じている事柄は、階層を持って成立している。個人の自由の一部を制限し、それを担保にして社会秩序を維持しているのです。

 

自己肯定と自己否定

 他人を傷つける行為は否定されて当然とは、社会秩序が保たれているときほど人々の思い込みにあるものと感じられます。しかし、他人を傷つけるとはどこからどこまでを指すのか。感情的に判断すれば、他人を傷つけているのではなく、正しいことを教えているだけとなりそうです。人それぞれの解釈が与えられているときに、どのような考えや直感で線を引くのか想像すれば、自分にとって都合の良い線引きになることも容易です。

 人間は謝罪し、反省することができると述べましたが、これは「理性の領域」においてです。「感情の領域」では、自己を保つために全てと言っても過言ではない正当化に囚われています。感情の領域は客観的に自身を見つめることが非常に難しい。そのため、理性では正しいことを言っていても、感情的になると全く逆の行動を取った挙句、自身は間違っていないと結論づけてしまう。

 加えて、理性による反省とは、一種の自己否定であるため、自分が常に正しいという思い込み、あるいは自己否定を許容する精神的な余裕がない場合、理性による反省すら期待できなくなります。自己肯定は生の幸福感に繋がっているがゆえに、自己否定の必要性に気づけないことは珍しくなさそうです。わざわざ自分を否定し、変化する労力を割くよりも、自分を肯定し続けた方がそりゃあ楽ですよね。人間は間違いを犯し、その度に反省することが当然である人は、より良い人間について考え、邁進する一種の真善美を前提に置いているものと思われます。

 これは余談ですが、私はどちらかというと自己否定の割合が大きいため、自己肯定を欲しますし、自己肯定に振り切れたら悩みの全てから解き放たれるようで羨ましくなることがあります。しかし、このように考えると、自己肯定と自己否定はバランスよく、何かを信じて頑張る際には一時的に自己肯定を意識して大きくしたりすることが理想なのかなと感じています。

 

感情と自己

 人間の言葉や行動の全てに一定の自尊心(自己)が含まれているという直観を私は持っています。感情的である人ほど、この傾向は強く、少しの否定で大きく傷ついたりする。言葉や行動の全てを完全に理性の領域に置ける人もいないことはなさそうですが、それでも精神的な余裕が無自覚に減っているだけではないかと懐疑的です。誰であっても否定されれば、精神は疲弊するはず。

 特に(信頼関係の希薄な)公共性の高い場所では配慮が必要になります。例えば、このブログで他作品について言及するのなら、作者や制作陣、作品そのもの、ファンに対して敬意を払う必要がありますし、できる限り、理性の領域に留めるようにしなければなりません。ただ、それでもひとたび感情に囚われれば、言葉足らずになるでしょうし、言葉の性質によっても一定の誤解は避けて通れないかもしれません。

 全ての言動に自尊心が投影されているのなら、傷つけないための配慮が常に必要になります

 感情に囚われると、道理の是非ではなく、感情(自己)の是非になってしまって、それは常に自分は正しいという結論しか導かれない。これは「否定」という重い行為を選択する際には、あまりに根拠として乏しく、配慮もなければ、他者の感情の是非を誘発し、感情対感情で道理の是非からかけ離れてしまうのです。感情的な反応の連鎖は、道理に靄をかける。これも意識していないと、いや意識していたとしても回避することはなかなか難しい。それだけ人間は感情(自己)と切っても切り離せない生き物と思います。

 相手を尊重する、配慮することは、あなたの自己を脅かすわけではない、という意思表示ですね。これによって感情と理性の領域に分別をつけることができれば、次の段階へ進めます。

 

言葉の限界

 人間は言葉によってコミュニケーションしますが、言葉で表現することにも限界があります。そのため、初対面の人との会話では、なかなか噛み合わなかったり、それをきっかけに険悪になることもしばしばあります。言葉は発言者の能力にも依存しますし、受信者の理解力にも依存しています。本当に言いたいことや真意ですら、実は本人も瞭然と認識できていないかもしれません。

 誰がどう見てもはっきりとした事実に基づく会話が可能なことは“稀”であるという前提を持つと、相手の発言の解釈は自身の目的に依存することになります。怒りたい人は怒るし、共感する人は共感する。これは感情の是非に委ねられている状態ですから、自身にとって都合が良いように解釈しているだけです。なぜなら、感情の是非は常に自分にとっての「利」しか意識していないからです。とりわけ発言者の言葉から滲む感情の解釈は、解釈する側の状態に大きく依存します

 

感情と理性の領域

 人間は物事を感情と理性の両方で捉えているというのが直観で、その割合は人によって様々です。ただ、ここまで述べているように感情的な解釈にしろ、結論にしろ、感情に基づいてしまっている時点で自身に不利益のあるものにはなりません。

 一方で理性は、社会性であり、社会の一員としての自己という認識から是非を問えますから、自分が悪かったと結論づけることもあります。この違いは非常に大きい。

 人間は感情的な生き物ですが、理性があったからこそ、ここまで発展してきた歴史があると言えます。もし、感情の赴くまま、全ての人間が行動選択していたら、社会秩序なんて夢でも実現できないことだったと思います。だからこそ、理性の領域での判断を促進し、その判断の質を上げるために、理性の領域を拡張するために、学問や実践があるという話に繋がります。個人の感情の是非にも価値はあるのだけど、それだけでは全体としての答えを導けないのです。

「感情」は自己を守る領域として機能しているので、「理性」は他人に対する優しさであって欲しいというのが個人的に思うところです。結果的に、理性によって他人との信頼を獲得できれば、他人が自己を守ってくれることもありますからこれらの論理は「自分が全て」という人には通じないのだけど、ここを変化させる意味でも、新たな論理として下線部「理性によって―」を認識できればと思います。

 

否定の否定の正当性(人格の是非)とは

 階層を持っている事柄は、人によっても場合によっても捉え方が異なるため、自分自身ですら矛盾を感じることもあります。それは今まで述べた通り、感情と理性によって同時に捉えているせいで、自覚的でもなければ、その分別もつかない。感情優位である場合、常にその場、その瞬間の自分にとって都合の良い解釈を与え続けているだけになりますから、矛盾してもおかしくないのです。

 さて、人格の否定の否定にどんな正当性があるのか? 否定の全てを否定することができないならば、どこに線を引き、そこに線を引く正当性は何か。

 この問いは言い換えると、個人の自由をどこまで認めるか、他人にどこまで干渉して良いのかといった「基本的人権」の解釈に繋がります。全ての人間が感情の赴くまま、自由に行動選択をしてしまうと社会秩序の維持を困難にしてしまうかもしれないが、全く自由のない状態は人間としての幸せを享受できないかもしれない。それならば、自由に一定の制限をかけて(ルールを規定)、みんなで互いに迷惑をかけずに幸せになりましょう、ということ。

 人格の否定の否定の正当性は基本的人権が一つの根拠ですが、ここまでの流れに絡めた結論を立てたいと思います。

「人格の否定」「人格の否定の否定」は、主体を否定しているか、主体から成る行為を否定しているかの違いがあります。先に述べたように「人間は失敗し、反省することで改善される」という可能性に期待している限りにおいては、主体そのものまで否定してしまうことはその可能性を否定することになってしまいます。

 しかし、「人格の否定の否定」が果たして本当に“行為の否定”と言えるのかどうかという疑問を呼びます。ここで考えたいことは、感情と理性の領域に関すること。

 全ての言動に固有の自己(人格、自尊心)が投影されているものとすると、人格の否定を否定することも部分的には主体の否定と言えます。さらに言うと、「人格を否定する“人”を否定する」場合では、主体の否定という認識を持ちます。要するに「行為」は、「感情」と「理性」の混合物であるため、「人格の否定の否定」を理性の領域での是非として確信的に語られなければ、「人格の否定の否定」は必ずしも正当性を持っていると言えなくなる、行為の否定から逸脱する恐れがあります。「人格を否定する人を否定する人も人格を否定しているわけだから…」と延々と続いてしまうということですね。

 ここから派生して、「人格の否定」という絶対的に悪となる行為をしたのだから、その後の否定は全て肯定されるという思想もあるかもしれません(悪人の人権の是非)。これは突き詰めると、死刑制度や性善説、性悪説のような話に繋がりそうですが、話の流れから逸脱するため触れないでおきます。

 そして結論としては、感情と理性の領域をできる限り分けることが大切で、個人の尊厳、人格を平等に認めるのなら、常に最大限守られるとき、理性の是非は正当性を持つ。重要なのは、否定する対象の全てが人間の感情と理性の混合物であり、その分別と配慮に努めるということですね。

 

 

終わりに

 あらかじめ言論の場における人格否定の是非―と前置きしておけば、もう少しわかりやすくなったかもしれない。想定していたことは、特にSNSのような場における言葉が時として刃物になり得るということでした。

 誰もが簡単に発信できる社会になって久しく、様々な物事に意見を出すことも視点の数だけ価値があると言えます。

 しかし、その分、感情的な衝動によって他者を傷つけることも同時に行われやすくなりました。これは上記で述べている通り、人間の感情は暴走しやすく、それによって他者に大きな傷跡を残してしまう危険性があります。人間として最も恐ろしい部分を誰もが抱えていて、一歩間違えば、自分自身が加害者になっていてもおかしくない。

 以前から書いている通り、自分にしか書けない作品を探すために、自己の解明と感情的な自己への自覚というのが課題だったんですよね。自身の感受性、心的情報を頼りに、偏りを見つけたり、その弊害だったりを観察していました。

 私はこうした人間(感情)の性質に行き着いたとき、人間に対する大きな絶望と希望が同時に見出された気分でした。人間は等しく愚かなほどの自己愛があって、一方で理性によって驚くほど建設的で、一人の人間にはできないことを関係性によって実現できる生き物だな、と。よく道具において、活かすも殺すも人間次第なんていう言葉がありますが、同様に、人間の可能性を活かすも殺すも感情との付き合い方次第と感じます。

 あとは、否定そのものに関することや自尊心、コミュニケーションの虚無感、人間の変化の限界など考察してみたい。コミュニケーションは上記の中でも触れていますが、私は少し限界を感じつつあって、単純に楽しいことやおもしろいことを追求するお笑い芸人さんのような振る舞いでも良いのかなと思い始めています。お互いに分かり合えるという思い込みに、実は苦しめられている気がしなくもないんですよね。理想としてあって、作品の中で描くまでにしよう。現実には求めない方が気楽であるという…。