約二年半の一日一文を終えて

 少しの間だけブログから離れるつもりですが、このタイミングでしか書けない日記を綴っておきます。

 そう、一日一文の日課が1000回目となり、以前から予定していたようにここで一区切りします。当初は一言日記とも言える中身のない内容だったところから、少しずつ内容に拘るようになり、最終的には自分らしさを垣間見せられるようになった気がします。

 そもそも自分らしさと言いながらも、当初は自分らしさなんてあまり構築されていなかったのではないかとも思います。この日課を繰り返すことで自分らしさの片鱗に気づき、何度も思考を練り、自身と向き合い続けた結果、自分らしいものが構築されたのでしょう。おそらく一般的に語られる自分らしさも、ほとんどが不明瞭ながら辛うじて感じ取れる程度のものです。あるいは、人間の二面性である「社会性」と「自己愛性」の自己愛の部分を指したに過ぎないか。

 言い換えれば、作品において表現したいものが想像以上に希薄だったのかもしれません。こうした創作や芸術の分野で力を発揮するには、独自の世界観を持っているかどうかが大きく左右することを実感しています。誰に言われるでも、影響を受けるでもなく、幼少期から自分の好きで楽しい世界を構築し続けてきた人には敵いません。もちろん、一個人として自己愛性を持ち、独自の世界観がまるでないというわけではないものの、この分野で力を発揮する人たちと比べたら薄い上に甘かったことを自覚するに至っています。

 やはり、現在活躍されている多くの創作者が“自分自身に帰結する表現”を追求しているように見えます。常に自分を起点に創造している。

 また、本当に自分自身で価値を創るなら「一生勉強」と言っても良いでしょう。ただし、勉強と言っても知識を吸収するだけではなく、自分自身を土壌に、知識の応用可能性を追求するイメージになります。自分自身を土壌にすること、知識の応用可能性を追求することという二つを押さえておけば、自ずと自分にしかできない価値に繋がっていくはず。

 知識に備わる一般化、共通性によって、知識の吸収に偏ると自分自身も一般化してしまう錯覚、すなわち自分にしかできないことから遠ざかる怖さが私にはありました。そのため、最初から最後まで「自分で考えること」の手を抜かない。自分で考えることも簡単なようで簡単ではなかった。物事を考える際に「なぜ?」と二回、三回と繰り返したらよくわかりますね。

 私は日課を通じて、そうした自分自身の物足りなさに気づけました。アイディアの段階でどれだけ素晴らしいものであろうとも、完成する作品においては基礎能力が足りてなければ足りていないなりのものしかできません。強烈に厳しい現実ですが、作品を書くなら逃げられない現実です。人間としての基礎能力から作者としての意識、自分自身の成長を実感する度に過去の不甲斐なさが掻き立てられます。

 そんな感覚を抱きながらも、自分の可能性には一縷の望みを今もなお残しています。ここを完全に否定してしまったら、人生が終わったに等しい絶望感に襲われそうで率直に嫌な話です。これは私に限らず、誰であってもと思います。私のように自分に合っているものとの出会いが遅ければ、遅いなりのハンデを背負う事実は間違いなくありますが、だからと言って一縷の望みも賭けられないのではおもしろくありません。

 その望みに振り回されることもまた人生と悟れる日はもう少し先になりそうですが、逆に全く希望もないままに取り組めるほどの忍耐力が私にあるとも思えません。正直、ようやく作品のスタート地点に立てたに近い。それだけ身近ではなかった創作がここまで身近に、且つ勝負になり得る自分なりの土俵を簡単に捨てたくはありませんね。いえ、まだまだ不明瞭ながらも。

 そして、これからの取り組みが楽しくなる余地も大いにあると信じています。かつての自分が何も知らずに幸せだった部分があるとして、全貌を知るにつれて辛さが勝っていった経験から、今もまだまだ楽しいと言える境地にない現実に圧し潰されてしまうかもしれませんが、どこかで一気に好転し、成功が連鎖する可能性を信じていないと、実際に確かな幸せや成功を手にできる場面が訪れても逃しそうで怖い。

 最終的に詰めが甘くなる原因は、自分自身の可能性を信じられていないからと思っています。平たく言えば、自信ですね。長々と綴りましたが、不思議と達成感よりも、次の展開に意識を割いている自分に前向きな兆候を感じています。久しぶりにブログから離れている間に、新鮮さを取り戻す意味でも頭のリセットに努めます。