【執筆の考察】Part.8「物語の辿り着く先」

 ※「執筆の考察」は執筆時点の考え方を反映したものであり、現在の考え方と異なる場合があります。

 物語はどこへ向かうのか。集約した結論は作品テーマにもなる「人間の直観」ですが、その前の段階として「感情の揺れ動き」があります。物語を通じて、世界や登場人物の変化する光景に読者は一喜一憂したり、深く考え込んだり、感情を揺れ動かされるわけです。

 人間の直観は取り扱いが難しいので、今回は物語の行き着く先を「感情」として考察したいと思います。 

 最初は誰もが物語の表面、三大要素(世界観、登場人物、展開)に着目するかもしれませんが、三大要素の情報をそのまま受け取るだけでは何もおもしろくありません。「いつ、どこで、誰が、何をした」がわかっただけでは意味がないのです。

 これは第一回目からもわかる通り、物語とは何か、物語を通じて表現されたものが読者の刺激となって何を為すのか。感情の揺れ動きと表現を紐解きます。

 

人間の感情と刺激

 感情とは、喜怒哀楽に代表される心象とし、人間は絶えず内外の様々な刺激が基となって感情に結びついていると考えています。人間の心は常に微小な揺らめきの中にいて、その人の持つ感受性から広範囲に刺激を受け取り、想像力によって刺激の多寡が決まり、心象(感情)が浮かび上がるイメージです。

 厳密にそのようになっているかどうかはわかりませんが、人間の感情が内外の刺激によって発生する仕組みだけ押さえておけば文脈上は十分とします。ちなみにの点についてはタグ「哲学」にて一部考察しています。

 そして、物語も人間の外的な刺激に分類されるものです。物語とは、最終的に読者の感情を結ぶ刺激であり、作者の目的が読者を楽しませることであるなら、楽しさの感情に結びつく刺激を意図していくことと言えます。逆に外的な刺激にもなり得ない淡泊な物語は、当然感情にも結び付かず、つまらないという評価を引き寄せることになります。好きの反対は嫌いではなく、無関心と語られるように、刺激になり得るかどうかは重要な尺度となります。

 何だか当たり前な話にも聞こえますが、物語を形式的に捉えてしまうと、そもそも物語の存在意義、読者への刺激を作り出すという観点が抜け落ち、闇雲に登場人物を発想し、出来事を連ねることで物語としてしまいやすいと感じています。本来はどんな発想であっても、読者にどういう刺激となるのか検討しなければなりません。文章表現にしても言語的な意味の共有ですから、少なくとも小説の場合、どこまで創造性を追求しようとも首の皮一枚は人間であること、すなわち読者と共有を目的にする意図が完全に否定されることはないのです。

 さて、感情の揺れ動きが重要であるとき、「感情が揺れ動くような物語とはどういうものか?」と問いを立て次に進みます。

 これは物語の三大要素の一つ「登場人物」を絡めるとわかりやすくなるのではないかと思います。感情がより揺れ動くには、人間への刺激が大きくなる必要があり、この方法の一つとして考えられるものが「感情移入」です。読者自身が物語の(できれば複数の)登場人物に感情移入し、追体験しているかのような錯覚を抱くことが理想になります。普段は一つの身体に受ける刺激が、登場人物の数にまで増えれば、それはもう無視できない刺激となって感情が揺れ動くはずです。 

 

感情移入と心情表現

 物語の刺激、登場人物から得られる刺激を最大化するためには「感情移入」が重要として、そこに関わる心情表現について触れます。

 どうすれば感情移入できるのか。感情移入とは、登場人物の思考や気持ちを理解したり、共感したりすることですから、適切な論理を紡げば、自ずと読者は感情移入すると考えています。これは「登場人物の変化」でも述べた魅力的な人物と同じ考え方で問題ないと思われます。感情移入するための表現とは、読者と登場人物を繋ぐ架け橋(理解の階段)ということです

 ただし、架け橋を歩いて渡るかどうかは読者に委ねられているとしています。作者にできることは確実に橋を渡れるように準備しておくことと、橋の先にある景色を魅力的に映すことです。また、作者と読者(大衆)の認識が乖離することは珍しくありませんし、完全に埋めることもできません。作者の意図を共有するにも限界があるか、あるいは最初から共有できないことが起こり得ます。現実の私たちが特定の対象の気持ちを理解できるかどうかを考えてみても、無差別ではなく、やはり近い境遇にある人の方が理解は捗りますよね。

 そして、その架け橋をどれだけ正確に細かくできるのか。物語において作者の感受性が重要な理由も、この登場人物と読者を繋ぐ情報の認識が感受性に依存しているからですね。先に述べたように人間の気持ちは常に何らかのきっかけから変化しています。この感情の変化を観測し続けながら、的確な理解を促せる心情表現を選択していくことになります。

 

 ここで心情表現をするにあたり、注意していることを二つ述べたいと思います。

1.登場人物と感情を揃える

 作者も人間である以上、常に何らかの感情を抱いているため、登場人物の心情表現をする際、人物とあまりにかけ離れた状態では表現することが難しくなります。気持ちを揃えないと直ちに説得力を失うわけではありませんが、人物の気持ちに入り込まないと見えてこないものがあるように思います。

 そのため、私は特に感情が顕著に現れる場面では、登場人物や場面に適した音楽をかけて、気持ちをつくってから文章を書くようにしています。登場人物ごとに気持ちを切り替える作業は率直に精神が疲弊します。この作業を繰り返していると、自分の気持ちがわからなくなる状態にもなりかねないので、できるだけ切り替えをはっきりするためにも音楽はオススメです。

 

2.言語は全てを網羅できない

 人物の気持ちを文章で表現することには、そもそも無理があることを認識した方が良いのではないかと思っています。詩的な表現(間接的な表現)の可能性を引き出すためにも、言語の直接性だけに囚われずに、イメージをできるだけ投影する手段としての言語の在り方をよく考えています。

 詩的な表現(間接的な表現)とは、言語から直接的に読み取れる解釈、意味ではなく、言語の側面を浮かび上がらせるような表現のことです。例えば、「彼女は下唇を噛んで顔を伏せた」という一文では、直接的に読み取れる意味は彼女の行動のみですが、人間の習性を理解していれば「下唇を噛む、顔を伏せる」の二つが悔しい気持ちを表した行為であることがわかります。

「悔しい気持ちのあまり―」と付け加えても良いのですが、あえて気持ちを断定しないことで、読者自身が人物の気持ちを推察するという能動的な想像力を駆使できる利点があります。

 詳しくは後述しますが、小説のエンタメ性は文字情報しかないゆえに読者の想像力を引き出せるかどうか、さらには読者自身が自ら考え、想像できるような文章こそが理想としています。人間は主体性を与えられることに喜びを感じますから、逆に最初から最後まで作者が提示する情報を具に追いかける行為だけではつまらなさを感じてしまうのです。

 できるだけ細かく説明する作者もいれば、間接的な表現を多用する作者もいると思われます。そのどちらが正解とも言えない難しい塩梅は存在するものの、過剰なわかりやすさはつまらなさを引き起こす可能性があることだけは押さえておいても良いのかもしれません。

 

小説と音楽

 私はよく音楽を聴きながら作品を執筆することが多いのですが、音楽は気持ちを整えられるだけではなく、感情における重要な学びがあると感じています。というのも、物語の辿り着く先が「感情」としたとき、音楽もまた人々の感情を揺れ動かすものであり、その力強さも辿り着く速度も物語とは比べものにならないからです。

 素晴らしい音楽を聴くと、自分自身の何かと共鳴して居心地の良い世界に誘われるわけですが、この理由を私はうまく説明できません。おそらく音楽理論によっても、根本的な原理はわからず、人間の直観探しのような試みが音楽の世界にも存在し、そういう風に感じられるというだけで成立する部分があるような気がします。

 ここで小説と音楽の違いに少し触れておきます。小説は以前から述べている通り、言語的な性質である「論理性」が付随し、一方の音楽は論理性(順序)も含まれていますが、言語でいうところの間接的な表現によって成されています。

 言語の利点は、イメージの簡略化と視認性の高さから意味を伝えることが音楽よりも長けていることです。「ここにリンゴがあります」と言えば、受け手はリンゴがあることをすぐに理解できます。欠点を挙げるとすれば、間接的な表現はあれども、そうした言語の直接性、解釈される意味に縛られてしまうことです。

 音楽の利点は、人間の動物的な本能とも考えられる階層で表現できることです。ある音を聴いたときの解釈に論理が介在することなく、明るい音なら明るい、暗い音なら暗いと即座に感じ取れます。論理が介在しないことは、受け手の主体性を奪わない、解釈の余地を与えるという意味では大きな利点となっています。平たく言えば、小説は押し付けがましい理屈っぽさが抜けず、音楽は押し付けがましくなることがありません。

 小説と音楽を直接性の強度で並べるなら「小説(文章)>詩的な表現(間接的な表現)>作詞付き音楽>音楽」となります。感情に直接訴えかけるなら逆順。文章から感情まではいくつかのフィルターがあるイメージです。

 

 そして、音楽から得られる学びは「統一感」と「波形」の二つがあります。

1.統一感

 統一感の重要性は、音楽を聴くと一目瞭然ですね。明るい曲調に暗い音が混じると違和感に繋がりますから、同様に小説も作品テーマと人間の直観を定めたのなら、必要な要素だけを集めていくことがわかります。

 

2.波形

 音楽は一本調子ではなく、前奏から少しずつ盛り上がっていき、曲のさわり(物語で言えば佳境)があり、間奏を経て、再び盛り上がり、後奏で余韻に浸りつつ終わりを迎えるという一定の論理、物語性があります。元を辿れば、おそらく音楽も聴衆を飽きさせない配慮から波形に至ったと推察しますが、小説に比べて直接的に感情へ働きかけているので、音楽で表現される波形は感情の本質に近い動き、無理のない波形と解釈しています。

 以前に、物語の構成論は一体どんな切り口から考えられているのだろうかと疑問を持ちました。もし、音楽による感情の波形的な変化を切り口にしているのだとしたら、個人的には大いに納得できます。ただし、参考にするとしても言語は音に比べて刺激が一律に定まっているわけではありませんから、音楽ほど正確な波形を構築することは難しくなります。

 

終わりに

 音楽を聴いているときとそうでないときの気持ちを比べただけでも、いかに普段から人間の気持ちが落ち着いていないのかよくわかります。個人差はありますが、雑念に満ちているときほど、音楽によって気持ちが統一されることは癒しになっているはずです。

 物語の辿り着く先が「感情」とすれば、より根本的な働きかけをしている「音楽」の原理が応用できると考えたわけですが、こうした部分的に優位なものから学べることは他にもあるかもしれません。登場人物を考えるにしても、心理や精神医学が応用できると思いますし、物語の全貌を突き止める切り口は想像以上に転がっているのでしょう。

 また、そうした切り口が作者の個性にもなり得ますね。小説には人生の全てを活かせるのであれば、物語を学ぶには物語しかないわけではなく、構成要素別に考えれば、むしろ物語以外の分野から物語に繋げる方が奥深さは増します。小説を書くなら小説と全く縁のない分野こそ、小説としての形を成したときにおもしろくなると言えるのかもしれません。