【執筆の考察】Part.7「オリジナルとは?」

 ※「執筆の考察」は執筆時点の考え方を反映したものであり、現在の考え方と異なる場合があります。

 今回は、創作の本質である新規性や創造性に関わる重要な問いです。作品に最も要求されていると言っても過言ではない「オリジナルとは?」について考えたいと思います。

 もともと私がオリジナルについて考えるようになった契機は、出版社投稿時代まで遡ります。様々な出版社のコンテストには「オリジナル作品を求む」との文言が並んでいますが、これは一次創作、自分自身が考えた作品であることと、今までに見たことがない新規性に富んだ作品という二つの意味を含んでいます。

 自分自身で考えた作品ならば、必ず新規性に富んだ作品になるとは限りません。客観的に考えれば、過去の作品はすでに無数に存在し、現在から未来にかけても加速度的に増えていく中で、作品の新規性と言ってもたかが知れているように感じてしまいます。そんな中でも新規性を見出すには何を考えたら良いのか、人間の思考の変遷も交えて紐解きます。

 

人間の思考は形式から始まる

 創作は「0→1」を発想する、何もないところから新しいものを生み出すと考えられていますが、正確には「0」から生み出すという解釈は難しいと考えたいところです。

 例えば、ある言語の読み書きをするには、単語を勉強したり、文法を学んだり、そうやって基礎から記憶し、実践することを繰り返しながら、自分なりの文章を書くことができるようになります。何も知らない状態で表現することはできません。

 普段の私たちの思考には、そうした他者によって形成された様々なものが蓄えられ、必要に応じて引き出されていると言えます。今の時代は特にインターネット検索で様々な知識を獲得し、問題解決までもできますから、自分で考えるよりも、既存の情報をそのまま活用する場面の方が多くなっているかもしれません。

 しかし、創作においては他者によって形成されたものをそのまま扱うことができるものとできないものがあります。これは曖昧な点を含んでいるため、断言できないことはあらかじめ強調しておきますが、例えば、他作品で使用されているアイディアを、自身の作品でそのまま使用することは盗作盗用の問題を孕みます。直ちに問題となるかどうかは著作権の性質からして判断が難しいものの、この文脈においては程度の問題を避けて通れないことがわかれば十分です。

 一方、そのまま扱うことができると考えられるものは、小説なら小説の形式であったり、文章を書くための言語だったり、特定の人間に所有権があるような認識を持たないものになります。これも新規性という尺度のみから語れば、疑問がないこともありません。

 つまり、人間の思考を紐解けば、必ず他者が介在しているため、本来的に「0」という認識を持つことはできず、「0」に近づけることこそが新規性の現実的な追求と言えるのではないかと結論付けました

 また、小説を書くなら小説の形式には最低限従う必要があるため、新規性のただ一点のみを追求し続けることに意味はありません。小説としながら最初から最後までイラストが描いてあったとしたら、ある意味で新規性には非常に富んでいるとも解釈できますが、小説ではないと認識されたら元も子もありませんから。新規性の追求には、小説の枠組みの中で行われるものという暗黙の了解があります。

 では、創作に求められる新規性「0→1」とは何か?というと、先に述べた通り、限りなく「0」に近づけながら「1」を生み出すことと考えます。

 限りなく「0」に近づける行為とは、既にある形式に留めず、本質を探究することです。おそらく何も考えずにいれば、「0→1」ではなく、「1+1=2」のように既存の形式(作品)を安易に足して表現されるものになってしまいます。既存の形式「1」を学んだのなら、抽象化や分解を繰り返して「0.01」を100個集めたような認識に近づけることが本質の探究としています。認識が細かくなれば、表現に関わる組み合わせも膨大になり、新規性の認識を獲得しやすくなるはずです。

 第一回目で述べた「大きな枠組みだけを捉えておくこと」が新規性を図る上で効果的な理由も、完成された作品としての「1」を主眼に置くのではなく、作品の最低限の要素「0.01」を主眼に置くからです。小説とは何か、物語とは何か。こうした根本的な問いは「1」として無意識に留めてしまっている思考を解体することもできます。小説とはこういうもの、物語とはこういうものという思い込みによって狭い領域で考えないためです。

 創作が組み合わせの妙と語られるのも、上記の説明から肯けるかと思います。そして、人間の思考には他者が介在しているところから、自分なりの作品に仕上げていくには、他者の介在を取り除くような思考作業が必要になるとして次へ進みます。

 

最大の差別化は自分自身になること

 特に作品を書くために作品を読んできた経験、影響が大きくなればなるほど、生み出される作品は過去を踏襲せざるを得なくなり、どの作品も似たり寄ったりの評価を受けてしまう流れは必然と言えます。

 作品の新規性を客観的に考えるならば、作品が作品として認識される概念を正確に抽出したいところですが、どうしても曖昧さが残るため、突き詰めていくと、哲学的な問題に阻まれる印象です。とは言え、認識される概念の重複を避ける意識こそが創作の本質というべきものとも感じます。

 そこで現実的な解であり、あわよくば本質的な解にもなり得るものとして「自分自身になること」を最大の差別化として考えるようになりました。自分が自分になるとは変な感覚ですが、先に述べた他者の介在を取り除く思考作業の結果はそのように表現したくなるものです。

 では、自分自身になるとは具体的にどのような作業から成されるのか?

 これは自身の認識、思考、目的、好き嫌い、優劣、その他の価値観などから自分自身を色濃く感じられる要素を残していくことになります。ひとえに自分自身を知るということ。これまでに何を見て、何を感じ、何を考え、何を為してきたか。さらになぜそう感じてきたのか。疑問を与えることで自分自身の奥深い中身を確認します。

 そうして他人と違う自分を強く認識しながら、作品テーマと人間の直観を考えたとき、導かれるものには一定の新規性が見出されるとしています。

 また、この新規性の見出し方が引き算であることも付け加えておきます。人間は日常的に形式から学んでいますから、自己を感じられる要素を残しても、すぐにまた新たな形式に引っ張られ、自己を見失うことがよくあります。ただし、人間は自己との親和性の高いものを追い求めることもあるため、形式に引っ張られても自己さえ見失わなければ、新たな自己を発見する材料になったり、強調されることも十分に考えられます。

 つまり、人間は足し算(形式から学ぶ)と引き算(形式の中身にある自己を知る)を何度も繰り返しながら、自己(作品)を確立していくのではないかと思います。作品と向き合っていると、自分だからこそ表現できるもの、自分には到底表現できないものと良い意味で限界を知ることが増えます。

 

商業性と芸術性

 よく私が創作の二項対立として感じている「商業性」と「芸術性(新規性)」についても少し触れておきます。

 自分にしか書けない作品を追求していくと、ともすれば自分にしか理解できないものが完成する可能性もあります。作者の意図や哲学にもよりますが、完成した作品を誰も読まない、理解できない現実を果たして是とできるのか。

 人間の思考の変遷の通り、形式から学ぶ以上、まずは自分にしか書けない作品を追求していかなければ埋もれてしまう未来しか見えません。商業性の追求を大衆向けに理解しやすくアレンジする行為だとすれば、自分にしか書けない作品が見つかってからでも遅くはないはずです。

 また、創作の環境では、どんな作者であっても独自の感性を発見できれば、価値として認められる素晴らしい面がありながらも、一方で作品の評価を気にしてしまいやすい面があります。勝負の世界では勝ち負けが明解に示されるけれど、創作の世界にはそれがありません。そのため、売上や部数、閲覧数などの数字こそを評価するものとして映りやすいのかもしれません。

 しかし、最大の差別化は自分自身になることとは言え、そうした評価に振り回され、自分を信じることができなければ、いつまで経っても、自分の作品に辿り着くことはできません。他者から評価されていない現実の中で、自分が最高におもしろいと思う作品を追求し続けられる人はいるのか。私が創作の本質を“孤独”と解釈する理由もここにあります。常に自分の頭で考え続けることは評価されていない時期ほど揺らぎやすく、ついつい他人の思考を借りた展開や言葉を綴ってしまいかねません。

 守破離と呼ばれる考え方があります。最初は既存の考えを学び、成長していく「守」の段階。次に既存の考え方を疑い、自らの考え方を確立していく「破」の段階。そして、完全に自分の考え方が確立する「離」の段階。「守」の段階は、考え方の責任を他人が持っているようなものですから、失敗しても傷つくことが少ないのですが、「破」の段階から自分自身が矢面に立つことが増えるため、自信がなければ、すぐに「守」の段階に戻ってしまいます。

「他者から評価されているから間違っていない」と思い込むのではなく、第一に自分自身の尺度、評価項目を以て作品を冷静に分析した上で、他者からの評価を考えた方が良いのではないかと思います。自分自身を知り、近づけば近づくほど、自分という人間はひとりである事実が大きく圧し掛かり、まさに孤独の中を生きている感覚が得られます。普段、誰かと同じことをしている認識が自分を安心させていることに気づけるとも言えますね。

 

終わりに

 作品を書き始めたばかりの頃に完成する作品の多くが、他作品の影響を色濃く受けていることはよくあるでしょう。誰もが最初は他人の力を借りながらも、どこかで完全に自立するという流れを踏むと思われます。

 評価されない時期は孤独を感じやすく、自分の作品にも自信が持てず、途方に暮れることもあるかもしれませんが、私自身はそういう時期だからこそ、技術を磨き、自分の中身をつくれる時期と前向きに捉えています。創作の本質を考えると、アマチュアの時期こそが自己確立を大きく促せることは間違いありません。

 また、自分の考えを積み重ねることはオリジナルに繋がりますが、現実的に一から考えていくことは非常に大変な作業です。私自身はそういう方針で考え続けていますが、実際はもう少し緩く考えても良いように思います。あくまで上記の考え方は私自身の性格的な傾向を加味した上での取り組みになっているため、既存の方法論を応用しながら、執筆しやすい取り組みを見つけた方が建設的というか、効率的と思います。

 そして、商業性と芸術性のような見方も、もっと簡明に、責任の所在から考えても良いかもしれません。作品の責任は誰が持つのか。自分自身が持つのですから、どんなに読者を意識しても、自分から軸足が離れることは得がありませんね。