【執筆の考察】Part.6「推敲とは?」

 ※「執筆の考察」は執筆時点の考え方を反映したものであり、現在の考え方と異なる場合があります。

 今回は本文を書き終わったあとの「推敲」について述べたいと思います。推敲と言いながら、本文にも関わる内容になっているかもしれません。

 私は粗雑な本文を綺麗に舗装していくような作業が好きということもあり、必ず複数回行うようにしています。どうしても最初の本文は安直さや杓子定規な表現が目立つため、ひとえに無駄が多いのです。

 推敲の作業では、そうした無駄をどんどん削り、濃密な文章にするために新たな表現を模索したり、書き直したり、適切な熟語に置き換えたりしています。私の場合、構成の問題はプロットの段階で終わらせるつもりで取り組んでいますから、推敲の段階では表現の問題のみに絞っています。

 

適切な表現を模索する

 文章の機能的な面は、伝達、共有を目的にするものです。作品の場合、何を伝達、共有するのかというと、作品の本質であり、本質から有機的に結びつく物語の三大要素になります。では、適切な表現を模索するとして、適切さとは何か?と問いを立てたときには、必ず作品の本質を効果的に表現するという尺度に基づいていることはあらかじめ押さえておきたい点です。

 別の言い方をすると、文章を書く、物語を伝える行為のもとは作品の本質、物語のイメージであると仮定していて、イメージを効果的に読者へ伝えるために言語の営み(文章を書く)があるということになります。これを押さえておかないと、適切さというよりも、単なる好みの問題だけを考えることにもなってしまいかねません。もちろん、好みも重要なのですが、好みは伝達や共有においては優劣として解釈しにくいため、文章の機能、目的の優先順位を考えたときには後回しにしたいのです。

 つまり、表現の問題は何を尺度として語るかによって千差万別の答えが返ってくると言えます。例えば、以下の文章を「文字数」を尺度に比べてみたいと思います。

行き交う車の音が一瞬にして消え、私の脳裡を僅かな違和感がかすめる。ここ最近、奇妙な感覚に襲われることが多くなった。

駆動したエンジンとアスファルトを蹴るタイヤの鈍い音、往来する車の風切り音だけが下校する私の耳に鳴り響いていた。それがいつしか遠ざかっていくような感覚を覚えた直後、空気の揺らめきすら感じられない「無」の一瞬に只ならぬ恐怖を感じ取った。

 この文章の優劣はどうでしょうか。そう、この問いから優劣の判定には何らかの尺度に基づく実感を得られたはずです。今回は「文字数」を尺度に考えるわけですから、後者の文章が優れているということになります。実際は「文字数」だけを尺度に考えることは少ないと思いますが、詰まるところ、適切な表現の模索には作品全体に関わる“自己哲学”が尺度となっています。

 そして、文章の表現力は(詩的な表現を除けば)“語彙数”によって判断されると考えています。これはカメラの解像度を考えたらわかりやすいかもしれません。人物の表情や態度、心情、風景描写など、あらゆるイメージを言語化する際にはできるだけ元のイメージを損なわない表現であった方が精緻に伝わります。白と黒の二色で表現するよりも、何百色、何千色を駆使できた方が理解も早く、細かな点も認識できますよね。

 推敲の段階では、そうした全体の語彙数を増やすことも行っています。私の場合、最初の本文はプロットに近い状態から抜けず、イラストで言えば「線画」です。語彙数を増やすことは、線を整え、色を与えるようなものです。理想を言えば、自らの頭にあらゆる色が収納され、引き出せるようにすることですが、一朝一夕で身につくものではなく、一日一文の日課然り、まずは色を知り、収納場所を増やすことから取り組んでいます。本文の推敲、実作業では表現辞典や類語辞典を使用することもあります。

 

整合性(因果関係、論理性)を見極める

 まず、文章はどんな表現であっても意味があり、一定の順序に基づく論理性を帯びることを押さえておきます。論理性とは何か?というと、矛盾なき意味上の順序妥当性とでも言いましょうか(正確には論理性の一部)。

 例えば「冷蔵庫にはりんごがある」という文は日本語の文法に則り、冷蔵庫にりんごがあることを伝えています。これを「冷蔵庫/に/は/りんご/が/ある」と単語別に分けたとき、各単語を自由に入れ替えることは基本的にできません。すなわち、冷蔵庫にりんごがあるという意味情報を伝えるために妥当な順序が存在していることがわかります。

 もう少し詳しく説明すると、物を冷やして保存する「冷蔵庫」という概念を了解し、その中に「りんご」がある必然性を納得していると言えます。言葉の持つ意味の連なりを了解しながら、全体を通じて何を伝えようとしているか理解するわけです。逆に言うと、言葉の持つ意味や概念を正確に理解しているとき、「冷蔵庫」から続くいくつかの選択肢を無意識に把握しているとも考えられます。

 小説は文章と物語によって構成されていますから、そうした意味上の妥当な順序による了解が絶え間なく繰り返されていると言えます。ただし、学問のような厳格な論理と比べて、小説の論理は緩やかなものと思います。

 例えば、「冷蔵庫にはりんごがある」における論理的に解釈できる意味とは「冷蔵庫にりんごがある」以上でも以下でもありませんが、ある二人の間柄においてなら、論理的に解釈できる意味以上の広がりが生まれるかもしれません。その幅の分だけ、次に繋がる言葉から論理性を帯びているように感じられることはあります。おそらく厳格な論理を徹底していくと、意味以上の部分は排除していくことになり、普段の私たちのコミュニケーションからは少し離れていくことになります。

 つまり、小説における文章と物語の論理性は、厳格な論理では問題があったとしても、作者と読者の相互了解によって問題がないとされれば、修正する必要はないのではないかと思います。部分的には同様の厳格さを求めることはあっても、物語特有の要素、とりわけ感情は曖昧さが残りますから、論理性を徹底するにも限度がありますね。

 

 上記を踏まえた上で、推敲では以下の二つについてよく考えています。

1.展開の整合性

 展開の整合性とは、出来事の連なりの妥当性、過不足になります。物語では出来事と人物の変化が同時に起こりますから、出来事のみのチェックはそこまで多くないかもしれません。

 ある出来事(A)によって引き起こされた出来事(B)、出来事(B)によって引き起こされた出来事(C)…というように物語の冒頭から結末まで出来事は連なっていますから、その妥当性と過不足をチェックします。

 ただ、展開はプロットの段階で詰めますから、本文を書き終わった後の推敲では展開そのものよりも、展開に付随する表現(説明や解釈)として取り扱っている気がします。

 

2.意思(人物)の整合性

 意思の整合性とは、人物の思考や心情の変化、連なりの妥当性、過不足になります。これもプロットの段階からある程度は整理しておくものの、本文に入らないと見えてこない点が意外と多いため、推敲の段階では入念にチェックしています。

 入念に——と言っても、ここは先に述べたように作者と読者の相互了解によって成立しますから、詰まるところ、この作業に終わりも正解もありません。作者の常識、価値観が世間から大きく離れていたら、人物の思考の変化に必然性があると思っても、全く理解されないこともあり得ます。人物の変化を具に認識するに越したことはないものの、具に表現することは冗長的な評価にも繋がるので、判断が非常に難しいですね。

 そのため、大きな失敗に繋がらないことを第一に、普段から寛容な精神で人物を深く理解することを心がけています。

 

全体の統一感を意識する

 これは感覚的なところも多いのですが、文章表現や登場人物の名前のような読者の第一印象になり得る点には統一感を意識しています。

 確かに(詩的な表現を除いた)文章表現は語彙数が重要な指標になりますが、だからと言ってむやみに増やせるものではありません。というのも、普段から使い慣れていない表現は悪目立ちする恐れがあるからです。これは特に類語辞典や表現辞典を用いた場合に生じる問題点かもしれません。物の説明にしても、理解の差から緻密に説明されている箇所もあれば、そうではない箇所があると拙い印象を与えてしまうはずです。

 言葉、表現は意味だけで利用可能かどうか検討するよりも、どういう文脈の中で使用されているかどうかまで踏み込んだ方が安心です。

 例えば、「喫緊」という熟語は「差し迫って重要なこと」を表しますが、「トイレに間に合うかどうか喫緊の問題だ」の一文には少し違和感があります。意味は理解できても、喫緊は主に国や組織の重要な問題に対して使われる場面が多いため、トイレに間に合うかどうかの問題なら「緊急」と平易な表現で十分と思われます。小説だから難しい表現を多用するのではなく、使用するべき場面で使用される必然性は欲しいところです。

 また、登場人物の名前のような作者の感性が色濃く表れる点も注意が必要です。私の場合、とにかく思いつく限りの名前では凸凹な印象を与えてしまう不安から、特に主要登場人物は一定の法則を意識して決定するようにしています。

 統一感は安定感とも言い換えられるもので、作品に取り組む様々な事情から、常に同じような力量と精度はなかなかに困難な課題として映っています。よく物語の展開が不安定になったとき、実は作者の体調が芳しくなかったり、迷いが生じていたり、作者自身が安定していないことから作品に悪影響を与えてしまうことは珍しくありませんよね。人物の感情にしても、作者の変化に引っ張られるように変化してしまっては読者も混乱してしまいます。

 

終わりに

 作品に関わる作業は諦めたくなるほどに大変なものばかりですが、個人的に唯一と言っても良いかもしれない好きな作業が「推敲」です。書き直す度に良くなることから、ついつい延々と繰り返してしまう作業。

 過去には推敲の段階で大きな問題点に気づき、作品が破綻したこともありました。当時は真面目に執筆していたとは言えない取り組みだったけれど、数か月の作業が全て水の泡になったときの虚無感は言葉になりません。

 作品を執筆するとき、中途半端な気持ちの分だけ、間違いなく苦労します。特に長編作品は完成まで全てを注ぎ込むほどの確固たる意志がないと、作品世界への没入や挫折、整合性の不備などが露骨に発生しやすくなります。そのため、どんな作品であろうとも完成させられるだけで一定の称賛は浴びるべきともよく思います。