【執筆の考察】Part.5「プロットとは?」

 ※「執筆の考察」は執筆時点の考え方を反映したものであり、現在の考え方と異なる場合があります。

 今回は本文を執筆する前に取り組む「プロット」について書き留めたいと思います。

 プロットは必ず書かなければならないものでもなく、いきなり本文から書き始める方も多いかもしれません。私はプロットの準備は入念にしたいと常々考えていますが、初めて小説を執筆したときはプロットなんて全く知りませんでした。徐々にプロットの必要性に気づき、現在、構想中の作品ではきちんとプロットを仕上げてから本文を執筆するつもりです。

 また、プロットと展開の違いについてあらかじめ述べておくと、実際に物語(本文)で表現される出来事の連なりを「展開」として、その要約した形を「プロット」と定義しています。

 

プロットの役割

 プロットは、設定資料集と本文の架け橋となるものです。マンガで言えば、ネームですね。膨大な設定資料から、作品の本質を際立たせるために「いつ、どこで、誰が、何をした」という出来事の大きな連なりを発想、整理します。

 長編作品ほど道標がなければ、目的地に正確に到着することが困難になります。人間の思考はどうしても目先のことに囚われやすい性質がありますから、プロットで全体を俯瞰して考えられなければ、短期的な積み重ねに終始し、巧みな伏線と回収も難しい印象です。

 それでもいきなり本文から執筆できる人は、おそらく最初から作品の全体像が本文に近い状態なのだと思います。確かに小説の読み書きに慣れている人からすれば、冒頭から結末まで一直線、且つ俯瞰的に仕上げることができるかもしれません。当初は私も一直線に勢い任せで執筆したこともありましたが、目先に囚われ、整合性の問題が目立つようになり、プロットを素直に書いた方が良いのではないかという気持ちが高まって現在に至ります。本来は熟練の技という気がします。

 また、設定資料集が充実しているほど、プロットの役割は一層大きなものになり得ます。作品独自の設定、定義、専門用語から、物語に必要な情報を取捨選択する場合、選択肢の幅がある分だけ、考え直す機会は多くなるはずです。

 そして、本文執筆では表現の問題にできる限り集中したいため、それ以外の問題は事前に済ましておきたいという意図もあります。

 

プロットの書き方

 私の場合、プロットの書き方はまだまだ模索している段階で、特に決まりきったもの、テンプレのようなものはありません。また、書き方と言っても「プロットの役割」を意識していれば、難しいことは何もないと思われます。詰まるところ、本文を書くための補助ですからね。

 ただ、プロットを書く際に意識したい点はいくつか思い浮かびます。まずは何より「作品の本質」を見失わないことであり、際立たせることです。

 作品と向き合っていると、無数の発想を得られますが、その全てが応用可能ではありません。作品は例えるなら、自分にしか創れない一品料理ですから、貴重な食材や完成された料理を手当たり次第、盛り込むことはできないと考えています。応用しやすい形に加工するか、時には諦めなければならないこともあります。作品はおもしろいものが積み重なっているというのは間違いではありませんが、正確には作品の本質、存在意義に忠実な要素を集めていると考えたいところです。

 そして、作品の本質、伝えたいことをいかにして効率的に実現するか。ここは自己哲学が色濃く反映される点と思います。

 物語の三大要素である「展開」でも述べた「三幕構成、起承転結」のような構成論、区切り方も一つの伝え方ですが、作品もまた一つのコミュニケーションと考えたときに多種多様な伝え方があるはずです。私はとにかく事あるごとに作品の本質について考え続けながら、プロットでは本質に則った要点(表現しなければならないこと)や順序を検討しています。

 

区切るということ

 これはプロットを思考の観点から考える内容です。物語の全体像と言われてもイメージが難しいので「三大要素」と区切ったように、認識しやすくするために区切ることは日常的、かつ無意識に行われている人間の営為と言えます。

 そんな物事を考えやすくする“区切る”には、二つの注意したい点があります。それは意味のある区切り方と、統合することも忘れてはならないことです。

 意味のある区切り方。区切れば何でも簡明になるわけではなく、何らかの有用性に基づいて区切る必要があります。例えば、物語を三大要素に分けたことも、物語の大部分が網羅されていなければ、区切る利点は半減してしまいます。本来、あらゆるものが陸続きにあること、全体で一つと成っている直観に基づくとき、区切ることで全体の一部を喪失してしまっては意味がありません。言い換えると、喪失した一部についても考えておかなければなりません。

 イメージを言語化するとき、何だか言語化したものが腑に落ちない経験がある方ならわかるはずです。作品では心情表現などでよく感じることでしょうか。常にイメージの全てを言語に置き換えることは不可能ですから、腑に落ちない点を感じることは至って自然なことになります。ただ、全体をどのように区切ったのか、なぜそのように区切ったのかという点を疎かにしてしまうと、区切ることが矮小化、凝り固まった認識や思考に繋がり、狭い領域での表現を意図せず追求してしまう恐れを生みます。

 また、区切った後には元の全体に戻るように統合する必要があります。三幕構成や起承転結のように物語の流れを三つか、四つに分けることは一定の理論にも基づき、心強く感じるかもしれませんが、序盤から中盤に転換するとき、読者はそもそも序盤、中盤という了解を持っていないため、三幕構成が転換する根拠にはなり得ません。登場人物の展開と意思にも言える話で、気持ちの変化を逐次的に認識しておかないと、場面の転換の度に違和感を生んでしまいます。

 つまり、プロットの段階で構成について考えることは有意義なものの、区切る利点と欠点を把握しておかなければ、小さく不自然な物語になってしまうわけです。これは物語の直観というよりは、人間の思考の性質から紐解いたときの必然として考えました。

 

終わりに

 私は物語の構成についての考え方がまだまだ甘く、冒頭の場面一つとっても何を糸口に考え始めようかと思っているくらいです。読み手との距離が近い場合や商業的な立場に置かれていると、読者の需要の観点から構成を紐解く機会が多くなるのではないかと思います。

 乗算のように順序が入れ替わっても、浮かび上がる答え、本質は同じであれば、読み手の要求によって決めても差し支えありませんからね。もしかしたら実際は多くの作者がそのような観点から分析しているのかもしれません。私も同様に分析することもありますが、せっかくなら全く別の理屈から紐解けたらおもしろいとも感じています。物語もまたコミュニケーションの一つで、伝え方は多種多様に存在するという直観がある以上、結論を急ぎ過ぎては勿体ないですから。

 また、他人の気持ちを推察する機会は日常的によくありますが、伝え方を構成の面から探る機会はほとんどない気がします。イラストで言えば、構図であり、構図と言えば、イラストの訴求力に大きく影響を与えるでしょうから、同様に物語を理解するための順序、構成も重要なはずなのです。

 しかし、一体どんな切り口から構成論を考えているのだろうか。元を辿ると、かなり哲学的な問いを立てられそうにも感じますし、伝えたい想いが先行することで順序の重要性がさらに見えにくくなる予感もします。