【執筆の考察】Part.4「登場人物の変化」

 ※「執筆の考察」は執筆時点の考え方を反映したものであり、現在の考え方と異なる場合があります。

 前回、物語の三大要素について述べました。今回はその中の一つである「登場人物」に焦点を当て、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。

 当然のことながら登場人物は重要な要素として認識していたものの、長らくどういう考え方で取り組めば良いのか見えてきませんでした。今もなお、確信に至っているわけではありませんが、こうして書き留めるほどに認識できていることは素直に成長と捉えても良いのかもしれません。

 物語に登場人物は不可欠ですが、ただ何も考えずに人物がいるだけでは興味を抱けないはずです。では、どういう人物なら興味を抱けるのだろうか、はたまた人物の表現に必要な考え方とは何か。

 

自分とは違う人間を創造するということは

 どうしても表面的な情報を並べただけでは人間の有機性を感じることができず、いつも設定を目の前にしながらため息を漏らしていました。登場人物を差別化すること自体は理解しやすいと思いますが、実際に別の人間として表現できるかというとかなり難しい問題を孕んでいます。

 人間はどうしても自らの視点から見ている世界に引っ張られてしまうため、本当の意味で他人の視点から世界を観察することはできません。自分自身についての理解もままならないのであれば、他人についての理解は乏しくて当然とも考えられます。また、自分自身を理解するためには自らの認識や思考、行動を出来事に対する反応などから紐解くことができますが、他人について考える場合、自分との接点から想像を膨らませる他ないという事情もあります。

 部分から全体を理解することも簡単ではなく、さらに言うと、そもそも人間の全体像について考える経験というのが普通はありません。おそらく物語に登場人物が不可欠というところから形式的な理解に留まっている限り、人間の有機性を登場人物から感じ取ることはできないのではないかと思います。

 登場人物を考えるための方法論は様々あると思いますが、人間についての理解を深め、時には自分自身を捨てて他者の気持ちや考えに思いを馳せることは登場人物の根本的な考え方と感じています。方法論以前に、日頃から自分自身に強く固執してしまうと、他人の考えや気持ちが見えにくくなり、実感も伴わなくなってしまいますよね。すると、自分とは全く別の人物の振る舞いなのに、自分自身が色濃く反映され、登場人物全体から画一的な印象を与えてしまいかねません。これは思考の柔軟性を確保する利点の大きな理由にもなっています。

 ただし、あくまで私の作品が登場人物の深い理解を前提としている面があることで、上記の考え方に至っている可能性は否定できません。事実、登場人物と言っても登場する時間別に考えれば、形式的な理解だけでも十分な場合があるはずですから。

 

登場人物の変化

 登場人物の変化について考える前に、魅力的な登場人物について少し触れておきます。主要登場人物は作品の人気に直結するため、魅力的にさせたい衝動に駆られますが、魅力は付与するというよりも、浮かび上がるものに近い気がしています。

 仮に魅力的になれる属性付けのような試みがあるとしても、その前の段階として人間的な理解の伴わない人物には魅力も半減するか、最悪、忌避感にすらなり得るのではないかと感じています。人間的な魅力は属性によって表現されるのか、それとも総体的に浮かび上がってくるものか。私は後者と考えています。

 確かに登場人物を発想する際に極端な性格、直情的な人物ほど表現しやすいことは事実で、読者からしても第一印象として映りやすいものと思います。現実には極端な性格、直情的な人物であっても、“人間”という認識から始まってくれますが、物語の場合は人間的に理解できるかどうかの段階が挟まっているような気がします。少し極端に言えば、全く理解不能な思考回路を持った人物にいくら魅力的になれる属性が付与されていたとしても、先の事情を悟られるか、稚拙さを印象付けてしまうのではないかと予感します。

 逆に言うと人間的な理解を十分に得られた人物は、行動意図の推察も可能となり、出来事に対する反応(結果)を評価する段階(魅力)へ移行できると考えます。第一印象から入り、中身を知り、中身から第一印象までの必然性を理解するという流れ。もし、全ての人間に何らかの魅力があるという前提というか、真理があるなら、人間的な理解を得られる人物であれば、等しく何らかの魅力を読者は感じ取れると言えるでしょう。

 そして、登場人物の変化も、人間的な理解に基づく話になります。人間は絶えず内外の刺激によって、肉体も精神も変化し続けていますから、変化のない状態は直観に反するというのが共通認識なのだと思われます。物語のエンタメ性における登場人物とは、特別な意図を付与することもありますが、どちらかと言うと、自然な形のまま表現することがすでにエンタメになっているという解釈が妥当と思います。

 

登場人物の意思と展開

 物語は結末に向かって進む事情があるため、登場人物の意思との兼ね合いで悩み続けることは日常茶飯事です。私が小説に向き合う前は、作者が神様のように何でも自由に決めて、結末まで導くと思い込んでいた部分もありましたが、実際に取り組み、こうして考察してみると、お門違いも甚だしい事態を知りました。

 どういうことかというと、当然、登場人物たちは機械や人形でもなく、生きる世界は違えど、れっきとした人間としての意思があります。その人物の認識、思考、行動から必然性の高いものが外部出力されています。物語がある目的に向かって進まなければならないとき、登場人物たちの意思に反する場合があるわけです。

 このとき、物語の進行には「展開優先」「意思優先」の二通りの考え方が生まれます。

 例えば、殺人事件から犯人を突き止めるまでの展開を物語にしたい場合、それぞれの考え方から導かれる流れは以下の通りになります。

「展開優先」では、殺人事件の発生から、捜査の開始、犯人の手がかりを発見し、突き止めるまで一直線に表現されます。

「意思優先」では、殺人事件の発生から登場人物たちの性格や心理に基づき、行動選択されます。そのため、必ずしも捜査が開始するとは限りませんし、犯人を突き止めるまでの時間を予測することも難しくなります。

 展開を優先し過ぎるあまり、登場人物が意思無き人形のような佇まいになることもあれば、登場人物を尊重し過ぎるあまりに全く展開が先に進まないという事態も起こり得ます。これは一概に優劣をつけられませんが、物語の進行は常に展開と意思の二項対立が発生している認識は持っておいて損はないかもしれません物語は不自然な箇所がなければ、当たり前のように進行していると感じられますが、実際には不自然な箇所の確認、すなわち無意識にでも登場人物の意思と展開を了解しながら読み進めているはずです。

 物語が始まると、十分に考えられた登場人物たちならば、きっと自らの意思で動き出す感覚を得られると思います。作者が用意した展開に必ず従ってくれるわけではないのも、それだけ作者とは全く別の思考回路を持つ人物たちを具体的に想像できている証左であり、その人物の視点から必然性の高い展開が提示されることもあるからですね。

 

終わりに

 もし小説で感受性の豊かさが語られるとすれば、とりわけ登場人物に関わることだろうと思います。感受性と言われても想像しにくいかもしれませんが、現実に他人から得られる感情の情報の質と量には個人差があるということです。思考の柔軟性が登場人物の思考回路の理解に必要なら、感受性は心情を理解するために必要とわかります。

 物語には本当にあらゆるものが活用できるのですが、作者が感受性の豊かさという特性を持っていたとしても、意外と蔑ろにされていてもおかしくないような気がします。気づきにくいというか、自身の感受性を活かす形がわかりにくいかもしれません。

 しかし、自分にしか書けない作品を追求するなら、自分の特性を理解して応用することは必須と言っても過言ではありません。