【執筆の考察】Part.2「作品テーマと人間の直観」

 ※「執筆の考察」は執筆時点の考え方を反映したものであり、現在の考え方と異なる場合があります。

 第一回目にて、小説は単純な構成要素から成り、最低限の枠組みだけを捉えておくことの重要性を考えました。おそらく小説の深遠は踏み出す度に体感できるものです。人間の思考の変遷、認識が細かくなるに従い、精緻な表現の可能性に気づき、課題の多さを痛感します。

 今回は、小説の大枠を捉えたあとに何をするか。作品テーマと人間の直観について説明したいと思います。ちなみに文芸とラノベは「小説」として括ります。

 

作品の存在意義と娯楽性

 社会にはすでに「小説」という作品形態が当たり前に存在していますから、改めて作品の存在意義について考えると答えに窮します。実際、初めて小説を執筆した頃には存在意義については全く何も考えていませんでしたし、自分の中にある小説らしいもののイメージのまま、勢い任せで書き殴っていました。

 しかし、自分自身のそんな行為を客観視したとき、行為の本質、そもそも小説とは何か?物語とは何か?という問いに答えなくてはいけなくなります。それは形式的な意味ではなく、作品の存在が作者と読者、延いては社会全体にどのような影響を与えるものなのか、与えようとするものなのかということです。

 小説の表現に至らずとも、人間は言語的なコミュニケーションを日常的に繰り返し、お互いに刺激し合う関係性が社会の至る所で確認できます。小説もまた一つの主張、コミュニケーションと解釈するなら、第一回目で述べたように「物語性を持った文章」によって何かを伝えなければなりません。もし説得力を持った主張にだけ拘るのであれば、物語性は余分なもので論文の形式が最適になり得ます。

 そう、小説を執筆するならば、答えなければならない問いとして「作品の存在意義(メッセージ)」「物語性を付与する意味(娯楽性)」の二つがあると考えます。

 

作品テーマと人間の直観

 作品の存在意義(メッセージ)は、社会的な問題に対する具体的な解ではなく、作者自身の投影に近いものになります。これは社会的な問題を解くなら、小説の形式に拘る必要がないことと、社会的な問題として取り上げるほど明瞭な認識に至っていないという二つの意味に基づいています。

 作品の存在意義が作者自身の投影に近いとは、作品は作者の取捨選択の連続によって成されますから、作品を通じて表現したいことは当然ながら作者の認識や思考、目的、好き嫌いが反映されます。ここに他作品との差別化の本質を見出すと、作者にとって大切なものが自ずと込められ、読者はそれによって感情が動かされるということになります。これは人によって考え方が分かれるかもしれませんが、私は作者にしか見えないもの、感じられないもの、考えられないものをとことん追求した方が良いと考えています。

 また、物語性を付与する意味とは、作品を一種の主張と解釈したとき、論理性と専門性を高めていった形が論文ならば、物語性の付与は主張の彩り、言ってみれば親しみやすい例え話です。社会的な問題を解くでもなく、社会的な問題とまで認識されていない“人間の直観”を浮かび上がらせるには、論文に用いられるような統計的、実験的なデータではなく、人間生活を素描する擬似的な世界であった方が効果的なのだと思います。

「人間の直観」とは、的確に言語化できるわけではないが、人間にとっての“新たな気づき”としています。直感とは少し違います。例えば、今まで仲良く遊んでいた友人が交通事故で亡くなったとき、命の尊さを感じ、胸を抉られるような喪失感を抱きますが、同じ経験をしたことがない人にはなかなか実感できない部分もあります。ですが、物語によって表現されれば、限りなく近い感情の揺れ動きと共に深く理解、実感できるかもしれません。これは論文的なアプローチではなく、物語性を持つ作品形態の優位性です。

 つまり、どのような直観、人間にとっての新たな気づきが作品テーマとなり、それを証明するように物語として表現していくことになります。その新たな気づきに迫るためには、自分自身について深く知り、自分の目から見た人間そのものを追求していくものとしています。

 

作品の本質を追求する

 作品とは何か、小説とは何かという問いは上記の見解が全てではありません。作品の本質にも言えることですが、ずっと自問し続ける性質のものと思っています。作品の存在意義を自問し、他者(社会)との接点を考え、自分の認識や思考から表現を紡ぐことがどんな理想のもと必要になるのか。

 そうした本質的な部分を認識し、理解し、追求することが重要な理由は、作品内で表現される物語も文章も、できる限り本質に則ったものでなければ、伝わらない無駄なものになってしまうからです。これは自分自身を例に考えるとわかりやすいと思います。

 私たち人間は自分自身のことだったら、ある程度のことが瞬時に判別できます。目の前の物事や人物を好きか嫌いか、得意か苦手か。こうした直感が働くのは、無意識ながらも「自己」という本質を把握しているからと考えます。

 作品もほとんどこれと同じ論理なのですが、自分自身の肉体とは違い、物語は外部出力されるものです。作者の自己哲学が十分に投影されていれば、作品とは作品の概念を含んだ擬似的な自分自身となりますが、本来の自分自身ほど無意識に理解しているものとは言えず、先に述べた判別は難しくなります。この問題を解消するには、作品の本質について深く理解していくしかありません。

 つまり、作品の本質を追求することは、作品の存在から成る接点の効用を最大化するために必要ということです。表面的にはいくつかの要素の組み合わせにしか見えませんが、総体的に捉えたとき、その集合体によって表現されるものは一体何なのか。様々な食材から料理を作り、口に運んだ時に感じ取れる一つの味。その味が本質です。

 

終わりに

 第一回目となる前回は、小説や作品の大枠を認識しました。今回は大枠内における自分自身の領域を確保することと、その領域内の中心点(本質)について考えました。

 以前までは「根幹となる設定」と呼んでいたものが「人間の直観」に変化したことは個人的な成長です。作品とは自分の好きなこと、おもしろいことを追求する理念はよく語られているようにとても重要なものですが、必ずしもそれらが中心点(本質)まで届くとは限りません。

 どういうことかというと、自分にとっての好きなこともおもしろいことも紐解けば、既存の作品からの影響によって成されているからです。好きなことの中には他者が入り込んでいるわけです。それは何にでも言えることではないか。そう、これは誰もが最初に他人から影響を受けて育つ以上、仕方のない現象です。

 ただし、なぜ自分はそれが好きなのか、おもしろいと感じるのか。自分自身の認識に迫る理由や経験を改めて見つめ直し、だからこれが好きなんだ——と再確認できるとき、自分自身の本質から作品に投影されると考えています(自己を通じる)。

 別の言い方をすれば、思考の初期は大抵表面的なものから判断します。好きなこと、おもしろいこともよくよく考えてみれば、それほど好きではなかった、おもしろいと思っていなかったものが見つかり、本当に大好きなもの、夢中になれるものを吟味していくと、自分自身と強く親和したものが残っていきます。こうした自己を深く知ることが作品に重要な影響を与えるわけです。