【執筆の考察】Part.1「大きな枠組みだけを捉えておく」

 ※「執筆の考察」は執筆時点の考え方を反映したものであり、現在の考え方と異なる場合があります。

 タグ「執筆の考察」では、私なりの「小説の考え方」をまとめていこうと思います。

 あくまで私に映るものが中心となるため、偏りは大きく、もし汎用性の高い情報を得たい場合は既存の書籍一冊を読んだ方が間違いはありません(当然ですが)。この執筆の考察は作品における自己哲学にあたるものですから、鵜呑みにすることなく、常に自分自身に軸足を残すことを念頭に置いて下さい。

 もともと小説とは無縁な私が小説をどのように捉え、考え方を確立していくのか。この軌跡は成長の記録を主軸に持つものの、これから小説に取り組もうとする方の“新たな気づき”として作用するに至れば嬉しく思います。

 初回にあたる今回の日記では「大きな枠組みだけを捉えておく」ということで、小説の最低限の形式的な部分を説明したいと思います。

 

大きな枠組みだけを捉えておく

 小説の書き方は様々な書籍で詳らかに説明されていると思いますが、最初からいわゆるテンプレを頭に入れる行為には一長一短を感じています。確かに私自身が最初に小説を我が事として捉えたときには、茫漠としたイメージが漂い、掴みどころのない難解さを感じたことは事実であり、こうすれば小説を書けるという方法論は一種の安楽にも見えました。

 しかし、私の場合、どうしても自分自身の思考が阻害される不安を払拭できず、既存の方法論は参考にしないままです。執筆の最大の目的は「自分にしか書けない作品」に到達することと考えていますから、そのためにはできる限り自分自身で考え、表現していく難解さを引き取らねばならないとも思ったのでしょう。

 これは思考の性質を紐解いても、形式(答え)から学ぶことには利点と欠点があることがよくわかります。

 利点は効率的であること。いざ、小説を書こうと思っても何から手を付けたら良いのかわからないとき、既存の方法論は適切な道標になり得ます。最初に何を考えたら良いのか教えてくれますから、順序に則れば、作品は自然と完成するでしょう。他にも有力な考え方を提示してくれるかもしれません。

 一方で欠点は形式に縛られ、何も考えずにいれば、矮小化の一途を辿ってしまうことです。多くの人が同じ方法で作品を執筆すれば、どこか似たり寄ったりの作品になることは避けられないはずです。特に小説は正解がない領域ですから、不安に駆られやすく、自分自身の考えを信じ続けることが簡単ではありません。他者からの評価、人気に悪い意味で影響を受け、自分の考えではなく、他者の考えを借りるように表現してしまう危険性があるのです。

 人間の思考は尤もらしい形式(答え)を知ると、収束するように最適化が進みます。創作ではない分野であれば、その効率性は非常に魅力的なのですが、多様な価値が創出される領域では誰かと同じ考えを持つことに対する不安が大きくなります。それに小説の構成要素自体は複雑怪奇なものではなく、少なくとも学生時代から曲がりなりにも文章に触れ、何らかの物語を楽しんできた経験がある方なら、直感の働く下地から独自の方法論(自己哲学)は紡げるものと思われます。

 もし、既存の方法論や作品を参考にするなら、自身の考え方が確立し、先に述べた利点と欠点を意識しながら膨大な数に触れるか(一つに固執しない)。あるいは一つ一つの考え方を分解、抽象化して、しっかり向き合う覚悟があるときに限るつもりです。ただ、これはあくまで私の性格的な傾向も加味した取り組み方のため、考える手がかりすら見つけられなかったりすれば、素直に参考にするべきと思います。

 つまり、大きな枠組みだけで捉えておくと、根本的な問いから積み重ねられるため、時間はかかるものの独自性のある作品になりやすいと考えたわけです。

 

小説は「物語」と「文章」から成る

 これは先に述べたように、小説は“物語性を持った文章”によって表現される作品です。映像作品やイラストとは異なり、最初から最後までひたすら文字が並んでいます。逆に言うと、これだけの構成要素から娯楽性が見出されていることになります。

 物語とは何か。形式的な説明では、「いつ、どこで、誰が、何をした」の集合的創作物とでも言いましょうか。物語には架空の世界があって、人物が登場し、様々な出来事が時系列に並べられ、世界と人物が変化し続けるものです。

 一方、文章とは何か。これは言語とは何かに近い説明になってしまいますが、線状性と呼ばれる性質を持った表現と認識しています。例えば「りんご」という言葉を発話する際には必ず「り」から始まります。「り、ん、ご」を一度に発話(表現)することはできません。線状性とは、順序性とも解釈できるもの。必ず時間的順序によって規定され、意味を持ちます。ちなみにイラスト(絵)の表現は、こうした線状性を持っていません。「りんご(絵)」を見れば、順序性もなく即座に理解できます。

 すなわち、小説とは時系列(順序)によって区切ることが可能な表現である「文章」に、人々の興味関心を引く物語性(娯楽性)を付与した作品形態と言えます。

 そう考えれば、本来的に小説を執筆する行為そのものは難しくないことがわかります。それこそ、今日起こった出来事を文章で表現するだけでも、小説の作品形態に近いものですし、心情や風景描写を混ぜ、劇的な結末を用意すれば、小説と言っても過言ではないでしょう。

 では、何が難しいのかというと、(自分を含めた)人々の興味関心を引く付加価値を加えることです。この興味関心を引く価値を考えることが「執筆の考察」の主旨とも言えます。

小説の規則

 少ないながらも小説にはいくつかの規則が存在します。おそらく小説が商業性を持つようになってから、読者が楽しみやすいように共通の表現形式が模索されたのだと思います。もともとは学生時代に勉強した「古文」のように古風な文体(文語体)でしたが、明治時代初期の言文一致運動から私たちの普段の話し言葉に近い文体に改められたそうです。

・三点リーダーは「…」と1回ではなく、「……」と2回連続で使用しなくてはならない。「—」ダッシュも同様です。

・段落を変える際はスペースで頭一文字を空けなくてはならない。しかし、鍵括弧「」から始まる時はその限りでない。

 こうした規則は何も難しいことではなく、指摘されればすぐに覚えられるものばかりです。重要な点は規則そのものを覚えるだけではなく、目的に応じた使い方を自分なりに模索することと思います。初めての用語を登場させる際には鍵括弧『』を用いたり、先に述べたことを繰り返す際には「——」で省略したり、長い沈黙を「…………」で表したり、そうした記号を含めた文章でしか表現できないなりの工夫ですね。

 規則で問題になることがあるとすれば、コンテストくらいでしょうか。コンテストでは、一ページあたりの行数や文字数が規定されていますから、必ず従わなければなりません。

 小説に興味を持った当初は細かな規則も気にしていましたが、創作の本質を追求していくと、いかに柔軟に記号や改行を駆使して、少しでも読みやすくなるのか試行錯誤する楽しさに変化したように思います。

 

終わりに

 正直、私は小説を執筆しているという実感があるようでないというのが本音です。それはブログの自己紹介欄にも綴っているように、目的は小説ではなく、映像化のための原作という意識が強いからです。最初から私の性格的な傾向を活用して、漠然とした小説の正体に試行錯誤しながら迫っているような書き方なのです。

 究極的には人生の暇つぶしとでも思っているのか、あえて難しく捉え続けることを望んでいる節もあります。尤もらしい理由を述べれば、難しく捉えることで湧き出る無数の問いに、誠実に答えていくことが結果として私にしか書けない作品になると思っているからですが、この取り組み方のせいで何度も挫けそうになっていることは火を見るよりも明らかです。

 ただ、小説は限りなく自由であることから、自分自身の思い描く世界、表現を追求するにはこれ以上ないほどの性質を備えている良さも実感しています。自分自身の全てを応用できる受け皿としての有用性には目を瞠るものがあります。それによって自分自身を深く知ることも、救われることもあり、小説に全く興味がなくとも何らかの創作的な趣味を持つことは人生を豊かにすると言っても過言ではないかもしれません。